自省の産物だった債務ブレーキ法
この件について、欧州委員会はECOFINの決定を不服として欧州司法裁判所(ECJ)に提訴し、ECJは「法的に問題である」と結論付けたものの、最終的に制裁が行われることはなかった。
こうした顛末の結果、2005年3月、欧州理事会はSGPの改正を決定し、景気後退時の財政赤字容認、制裁の柔軟化などを可能にしている。
具体的には3%ルールを絶対視するのではなく、あくまで「景気後退が深刻な場合」には例外を認めるように変更され、SGP違反国に対しても「短期間(通常1~2年)で3%以内に戻すべき」とされていたものが、経済状況を考慮して柔軟に調整可能という立て付けになった。
今では信じがたい話だが、ドイツがフランスと共闘して「財政ルールはゴネれば変えられる」という前例を作ったのである。
結局、この財政ルールの修正が南欧諸国の財政弛緩を招き、2009年以降、数年にわたって金融市場を揺るがす欧州債務危機へ発展するのである。
メルケル前首相はこうした過去への反省を常に抱いており、これが債務ブレーキ法という発想につながったという理解はあり得る。
前掲の図表②にも示すように、2005年のメルケル政権発足直後は、ユーロ圏経済を含め世界経済がバブル的な様相を強める中で財政収支は急改善を果たした。しかし、金融危機が発生した2008年以降、銀行救済や景気対策の結果として再び財政収支は悪化に追い込まれる。
欧州委員会も2009年、SGPの「例外条項(escape clause)」を適用し、財政赤字が3%を超えても違反とはみなさないとの決定を下している。
その後、2010年以降、ギリシャ、スペイン、イタリア、ポルトガルが次々と国際金融支援を仰ぐ事態(いわゆる欧州債務危機)が発生し、その都度、危機パッケージの負担をドイツが背負う事態が繰り返された。
メルケル政権が債務ブレーキ法を憲法に導入し、運用に至った2009~2011年というのはそういった時代である。
「野放図に南欧諸国への救済措置を繰り返すことへの危機感」が債務ブレーキ法という発想に繋がった可能性は高いが、首相就任前の経緯を踏まえれば、そもそもドイツ自身がSGPを蔑ろにして、債務危機の遠因を作ったということへの自省もあったはずである。
メルケル前首相の気質も考慮すれば、「盟主としての模範を示す」という部分もあったかもしれない。