「自民党をぶっ壊す」と叫んで2001年の総裁選で初勝利した小泉純一郎氏。左は前任の森喜朗氏(写真:ロイター/アフロ)

自民党総裁選に向けて、候補者が次々と名乗りを上げています。2024年9月27日の投開票までおよそ1カ月。新総裁の下で自民党はどのような姿になるのでしょうか。過去の総裁選を振り返る連載の後編も「政治とカネ」の問題を織り込みながら、政権与党の権力闘争の歴史をやさしく解説します。(前編/後編の後編)

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[前編から読む]
◎【自民党総裁選】「カネとポスト乱発」、怪文書も…自民党はどんな総裁選を繰り広げてきたのか

「ガチンコ」の総裁選が一度もなかった1980年代

 1980年代から90年代にかけての自民党は、田中角栄元首相の隠然たる力を背景に動いていきました。1974年に金脈問題で退任に追い込まれ、ロッキード事件で刑事被告人になったとはいえ、田中氏はキングメーカーとして党内に君臨。「カネの力、数の力」を武器として“田中派支配”と呼ばれる態勢を作り上げていました。

 しかし、田中派支配が続く一方で、1980年代の10年間はガチンコの総裁選が一度も行われませんでした。話し合いで次期総裁を決めるパターンが続出していくのです。鈴木善幸氏(在任1980年7月〜1982年11月)の場合も、最初は党副総裁の“裁定”で選ばれ、2度目の任期は対立候補のいない無投票でした。

 続く中曽根康弘氏(在任1982年11月〜1987年10月)は「戦後政治の総決算」を掲げて登場しましたが、実際は田中氏の強い影響下にあり、就任当初、マスコミはこぞって“田中曽根内閣”と呼んだほどです。

 中曽根氏をトップに選んだ最初の総裁選(1982年11月)では、党員による予備選挙の結果、他候補が本選を辞退し、本選は行われませんでした。2度目の総裁選(1984年10月)では中曽根氏以外に立候補者はおらず、無投票で中曽根氏の再選が決まります。

 問題が起きたのは、2期目の任期切れ(1986年9月)のときです。この年の7月の衆参同日選挙で自民党が圧勝したことを背景に、中曽根総裁は党則を変更。2年の任期を「党大会に代わる両院議員総会」で1年延長できるという規定を新設し、自らゴールポストを動かして総理総裁の任期を延長したのです。総裁の3選禁止という規定までは世論を気にしてさすがに動かしませんでしたが、簡単には権力を手放さないという傲慢な対応だったとも言えます。

来日したレーガン米大統領(左)を山荘に招き、ほら貝を吹いてみせる中曽根氏。とりわけレーガン大統領との関係は強いと言われた(写真:共同通信社)

 実は、自民党総裁選のルールは、その時々の政治状況や党内の力関係によって頻繁に変更されてきた歴史があります。強者がルールを作ってきたという側面も見逃せません。

 ところで、総裁選の「予備選挙」とは、どんなシステムだったのでしょうか。