数十億円の不正蓄財、「カネまみれ」批判でついに下野

 自民党の総裁選は1960〜70年代にかけ、主に国会議員の投票によって勝者を決する仕組みで行われていました。そのため、現金を伴う買収工作が続出。公職選挙法の縛りも受けないことからカネの力は絶大でした。

 この状況に一般の有権者や自民党を支援する経済界も激怒。古い自民党と決別するとして1978年11月の総裁選で初めて、党員・党友による選挙が導入されたのです。この予備選で上位に入った者が国会議員による本選に進む形でした。

 自民党はこのとき、それまで40万人だった党員を150万人にまで拡大しています。「党員になれば総理総裁を決める選挙に投票できる」「あなたも総裁が選べます」というキャンペーンが功を奏したのでした。

 1年延長された中曽根氏の任期は1987年10月に終了しました。その総裁選で中曽根氏は、「ニューリーダー」と称された有力議員の中から“中曽根裁定”によって竹下登氏(在任1987年10月〜1989年6月)を後継総裁に指名。田中角栄氏がそうだったように今度は自らがキングメーカーとして、自民党に君臨しようとしたのです。

 中曽根氏の後継となった竹下氏はリクルート事件など「政治とカネ」の問題で退陣します。その後の宇野宗佑氏(在任1989年6月〜同8月)も、“竹下裁定”による選出であり、選挙はありませんでした。

 この頃の自民党は「カネまみれ」としか言いようのない状況でした。金丸信・副総裁による不正蓄財事件ではその金額が数十億円に達し、自宅から金の延べ板が見つかったほど。金丸氏はまた、竹下氏からトラブル処理を依頼された際、暴力団会長に解決を依頼するなどしていたことも発覚したのです。

 やがて、当時の政界は「政治改革」一色となりました。もともとの問題は自民党とカネの話だったはずですが、「選挙制度こそが問題だ」などとして議論の軸足は小選挙区制の導入に移行します。それでも、カネまみれの自民党政治に対する国民の怒りは消えず、1993年の総選挙で自民党は敗北。日本新党の細川護熙氏を首相とする連合政権にその座を譲り渡し、下野することになりました。