約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
関羽死後の第2世代の戦いのあと、第3世代の曹叡の活躍
魏で220年に皇帝になった第2世代の曹丕は、わずか6年間の在位で226年に死去。魏では第3世代のトップとなる、曹叡が帝位につきます(魏の帝位としては第2代ですが、曹操を初代と考えて世代交代の視点から、曹叡を第3世代のトップとしています)。
曹叡は239年に死去しており、13年間の在位は父の曹丕の約2倍です。父の曹丕の時代に、曹操とともに戦った勇将、謀臣の多くは世を去り、第1世代の有能な人材はわずかしか残っていない状態でした。この状態でも、曹叡は魏の領土を守り、呉の孫権、蜀の諸葛亮による侵攻を見事に撃退しています。
諸葛亮の北伐は227年から始まり、死去する234年まで5度に渡る北伐を行います。諸葛亮が率いた時代の蜀の北伐は、すべて曹叡の時代に撃退されたことになります。戦争対応に優れた皇帝の曹叡は、どんな人物だったのでしょうか。
悲運の第3世代、曹叡の後世の評価
曹叡は16歳のとき、父の曹丕によって生母(甄氏)が殺されています。寵愛を失ったことに文句を言った甄氏の言葉に激高した曹丕が、死を宣告したからです。そのため、息子である曹叡も、ギリギリまで跡継ぎの立場になれませんでした。
2代目の曹丕は、皇帝に即位したのち、急に人の話や助言を聞かなくなりました。曹操が健在だった時期、常に偉大な父の視線を気にしなければいけなかった曹丕。自分の感情を押さえて合理的にふるまうことが必須だった青年期を、よほど恨みに思っていたのでしょう。
父である曹丕から母を殺された曹叡は、父曹丕の死の直前にようやく跡継ぎとなったのですが、父を反面教師としたのか、曹叡は皇帝となっても群臣の意見をよく聞いたようです。
『曹叡には犯しがたい威厳があり、即位してからは大臣をよく礼遇し、功績・能力の真偽を見定め、浮ついた議論や讒言の端緒を断ち切ろうと努めた』(書籍『正史三國志群雄銘銘傳』より)
一方で、曹叡の在位期間には、重臣だった司馬懿がその息子兄弟とともに勢力をさらに拡大しており、曹叡の代を終える頃には、その影響力は抜きがたい存在になっていました。もし、もし曹家の帝位を守り抜きたいのならば、どんな策略を使っても司馬懿一族は除いてしまわなければいけないはずでした。しかし、曹叡はそれをしなかった。
『君主としての度量を持ちながら、徳業を立てて教化を弘めようと思わず、宗室を大切にしないで臣下に国家の大権を付与し、そのために社稷(国家)の守りを失ってしまった』(同書より)
3代目の曹叡は、知的に優れたリーダーであり、信任のおける部下に適切に任務を任せて政治を行ったと言えます。一方で、司馬一族が勢力を拡大する中で、曹操の時代からの恩顧の人材が最後に残っていた曹叡の在位時は、司馬一族を除く最後のチャンスでした。
曹叡にその英断ができるほどの隙が、司馬懿側になかったのか、曹叡の能力が足りなかったのか。曹家が2代にわたり、兄弟を競争関係に追い込んだことも影響しているでしょう。特に曹丕は帝位についたのち、兄弟を礼遇したことで、一族のきずなはズタズタになっていたことも大きく影響していると思われます。
結果として、曹叡は司馬懿に大きな権力を残してしまい、曹家の滅亡する運命は決定してしまいます。