約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
凡庸な軍師は、大敗北を引き寄せる…
前回の記事で、大軍略家のNo.1を魯粛、戦闘指揮官のNo.1を司馬懿と選定しました。このように三国志では、抜きん出た成果を残した優れた軍師が登場する裏で、勝者に敗れて退場する「ざんねんな軍師」も多数いました。
このような「ざんねんな軍師」が指揮を執る軍団では、大将はその野望を実現することなく無念とともにこの世から去ることになったのです。三国志は、まさに実力と結果だけがものを言う世界で、飾り立てられた古い権威や肩書は何の役にも立たない状態でした。
今回の記事では、前回の最強軍師と対比して、「ざんねんな軍師」を挙げ、彼らのざんねんさが、どんな要素から生まれているかを考察します。実はこのようなざんねんな軍師のような人物は、現代ビジネスでもわたしたちの身の周りにたくさんいるかもしれません。
三国志で、一番ざんねんな軍師は一体だれか?
最初に、ざんねんな軍師の選定のため、3つの戦いを想定したいと思います。
以下の3つでは、軍師の失策により大失敗が生まれました。
◎194年の陳宮による曹操への反逆
◎200年の官渡の戦い(袁紹軍が曹操軍に敗れた)
◎228年の街亭の戦い(蜀の馬謖が失敗して敗れた)
陳宮は黄巾の乱ののち頃に曹操に仕えており、いわば古参の参謀でもありました。この時期の曹操の参謀には、ほかに荀彧や程昱などもいましたが、194年に曹操が徐州を攻略するとき、その留守を狙って反旗を翻します。
呂布と張邈を裏切りに誘い、曹操の根拠地は残り3城になるまで一時期は形勢を逆転します。しかし反逆の翌年には曹操軍が帰還し、荀彧や程昱が守った3城も攻略できず、最後は自滅するような形で敗北を迎え、曹操に帰服することを拒んで陳宮は処刑されました。
この敗北には、大将だった呂布が、陳宮の献策を受け入れなかったこと、陳宮が他の武将と不仲だったことなどが挙げられています。
200年の官渡の戦いは、三国志の時代の大戦争の一つで、当時最大勢力だった袁紹の軍団と、曹操軍が対峙した戦いでした。袁紹軍には、智謀で有名な田豊、沮授のほか、郭図や辛評などがいました。しかし軍師たちが仲たがいをして共に別の献策を袁紹に行い、バラバラになる混乱と同時に敗戦への失策を繰り返していきます。
田豊は袁紹が勢力を拡大する初期を支えた参謀で、沮授も軍事的な見識が優れた人物でした。ところが袁紹は、大戦争でことごとく二人の献策を退けて、郭図や辛評の劣った献策を採用することで、せっかくの大軍団を崩壊させてしまいます。
田豊は袁紹の決断に反対したことで、投獄されて最後は死刑とされてしまいます。田豊がもし、袁紹軍の軍事指揮を完全に行えば、勝敗のゆくえは分からなかったと曹操ものちに語るほど、優秀な軍師だったのに、袁紹はまったく使いこなすことができませんでした。
228年の街亭の戦いは、諸葛亮が率いる蜀が最初の北伐を行った戦いです。才能を見込まれていた馬謖が、抜擢されて要害である街亭で敵将の張郃を待ち受けますが、水源のない山頂に馬謖が陣を構えたため、敵に水の補給を絶たれて士気が衰え、魏の張郃に大敗します。
馬謖は頭のなかでの軍事議論では群を抜いていましたが、実戦経験が少ないにも関わらず、自分の知恵を過信していました。その過信ゆえに、歴戦の武将だった味方の王平の忠告も聞かず、成功する条件の整っていた戦いを崩壊させ、味方を大敗北に導いてしまうのです。