写真提供:共同通信社

 ホンダF1を30年ぶりの優勝へ導き、F1最強のパワーユニット開発の指揮を執った元ホンダ技術者・浅木泰昭氏。大きな危機に幾度も直面しながらも、オデッセイのヒット、大人気軽ワゴンN-BOXの開発など数多くの成功を収めてきた。本連載では、『危機を乗り越える力 ホンダF1を世界一に導いた技術者のどん底からの挑戦』(浅木泰昭著/集英社インターナショナル)から内容の一部を抜粋・再編集し、稀代の名エンジニア・浅木氏が、危機を乗り越えて成功をつかむ過程を追う。

 第2回は、入社2年目で配属されたF1エンジンテスト部門での日々と、本田宗一郎氏との思い出を振り返る。

<連載ラインアップ>
第1回 「世界のホンダ」を襲った3度の大きな危機と、反転攻勢のきっかけとは?
■第2回 開発現場にふらっと現れた本田宗一郎氏、社員を困惑させたひと言とは?(本稿)
第3回 初代オデッセイ開発を通して名エンジニアが得た「大事な教訓」とは?
第4回 ホンダ社内ではバッシングの嵐、逆境のF1部門で名エンジニアが採った施策は?
第5回 F1で優勝してもパワーユニットメーカーには「分配金ゼロ」、ホンダはいかに存在を示すか

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 こうして入社から1年後の1982年、私はF1エンジンのテスト部門に配属されました。テスト部門といってもメンバーは上司と私のふたりだけ。あとは設計部門もありましたが、そのほとんどがF2とかけ持ちをしている状態でした。

 最初のF1エンジンはすごくいい加減なものでした。簡単にいえば、F1のレギュレーションに合わせるために、F2用のV型6気筒の2リッターエンジンをF1用のV型6気筒の1.5リッターターボエンジンに改造したもので、シリンダー内側の直径(ボア)はそのままでピストンが往復運動をする距離(ストローク)だけを短くし、それにターボチャージャーをくっつけただけの代物(しろもの)でした。

 そうなると当然、エンジン内で異常燃焼が原因で異音や振動を発生するノッキングが起こり、ピストンが溶けるなどのトラブルが続出します。私の仕事はエンジンをテストして、トラブルの原因を探ることでした。当時の私は入社して1年余りの素人でしたが、何度もテストを繰り返してみると、ホンダのエンジンがF1の排気量に見合った設計ではないことは明らかにわかりました。

 今にして思えば、そんなことは当時のF1開発チームのリーダーたちもわかっていたと思います。でもF1専用のエンジンをいちからつくろうとすれば、エンジンの骨格から設計をし直さなければなりません。当然、お金と時間がかかるので、とにかく1.5リッターのV6ターボエンジンをつくって既成事実として見せてしまえばF1活動をスタートさせられる――。

 そういう発想だったのだと思いますが、入社2年目の私はそんな事情まで頭が回るはずもありません。こんなエンジンじゃ、とてもF1で勝てないと設計部門の上司に文句を言いに行きました。

「こんなボアのサイズじゃ、いくらなんでもいびつすぎます。壊れるのは当たり前です。ボアのサイズを小さくしてください」

 普通、入社して間もない20代前半の若者が上司に対して面と向かってそんな強い口調で文句は言いません。上司からしたら面倒くさいヤツだったでしょう。私の言っていることは技術的には間違っていませんでしたが、まるで上司を上司とも思わないような態度でした。ただの生意気で変なヤツだったんです。

 その上司も、最初は「この若造が何を言っているんだ」と思っていたかもしれませんが、当時23~24歳の生意気な部下を毎晩、飲みに連れて行ってくれました。研究所のある和光の周辺はあまり飲み屋がなかったので、よく成増(なります)(東京都板橋区)の焼き鳥屋に行って、生意気を言いやがってと頭を小突かれ、説教されました。

 それでも「こんなボアだから壊れるんです」「勝たないとダメなんです」と先輩とエンジニア談義を重ねる。そういうことが週6回ということもありました。