cristiano barni/Shutterstock.com

 ホンダF1を30年ぶりの優勝へ導き、F1最強のパワーユニット開発の指揮を執った元ホンダ技術者・浅木泰昭氏。大きな危機に幾度も直面しながらも、オデッセイのヒット、大人気軽ワゴンN-BOXの開発など数多くの成功を収めてきた。本連載では、『危機を乗り越える力 ホンダF1を世界一に導いた技術者のどん底からの挑戦』(浅木泰昭著/集英社インターナショナル)から内容の一部を抜粋・再編集し、稀代の名エンジニア・浅木氏が、危機を乗り越えて成功をつかむ過程を追う。

 第1回は、ホンダが直面した3度の危機と、いかにして危機を脱し成功をつかむことができたかを振り返る。

<連載ラインアップ>
■第1回 「世界のホンダ」を襲った3度の大きな危機と、反転攻勢のきっかけとは?(本稿)
■第2回 開発現場にふらっと現れた本田宗一郎氏、社員を困惑させたひと言とは?(6月5日公開)
■第3回 初代オデッセイ開発を通して名エンジニアが得た「大事な教訓」とは?(6月12日公開)
■第4回 ホンダ社内ではバッシングの嵐、逆境のF1部門で名エンジニアが採った施策は?(6月19日公開)
■第5回 F1で優勝してもパワーユニットメーカーには「分配金ゼロ」、ホンダはいかに存在を示すか(6月26日公開)

※公開予定日は変更になる可能性がございます。この機会にフォロー機能をご利用ください。

<著者フォロー機能のご案内>
●無料会員に登録すれば、本記事の下部にある著者プロフィール欄から著者フォローできます。
●フォローした著者の記事は、マイページから簡単に確認できるようになります。
会員登録(無料)はこちらから

 人間の集団である企業が長く存続していると、危機は必ず訪れます。

 私は1981年(昭和56年)にホンダ(本田技術研究所)に入社しました。創業者の本田宗一郎さんは取締役として社内に残っていましたが、すでに経営の第一線を退いていました。本田宗一郎さんが社長として現役だった1970年代前半までは、ホンダは今でいうベンチャー企業のようなものだったので、何度も危機が訪れ、それを乗り越えてきたのだと思います。

 私が入社した頃のホンダは、社内にベンチャーの空気は残っていたものの、すでに大企業に成長していました。それでも私がホンダで働いていた2023年の春までの間に何度か大きな危機に遭遇しています。

 最初の危機は、1994年に発売された初代オデッセイの開発に私が携わっていたときです。当時のホンダは、国内で巻き起こっていたRV(レクリエーショナル・ビークル)のブームに乗れず、売れる車がありませんでした。しかもバブルが崩壊し、国内の自動車市場が冷え込み、三菱自動車に合併される可能性を報じるメディアもありました。

 また、私が開発責任者として軽自動車の初代N-BOXを始めとするNシリーズの開発を立ち上げたときも、ホンダは危機の真っ只中にありました。2008年9月、アメリカの大手証券会社リーマン・ブラザーズが倒産したのをきっかけに世界中に金融危機が広がり、円高が急速に進みました。ホンダは稼ぎ頭である北米市場への輸出ができなくなり、日本国内の工場の稼働率はどんどん下がっていました。

 そんなとき、私は国内で生産できる新たな軽自動車の開発を託されました。当時、ホンダの軽自動車はまったく売れておらず、シェアは4番手まで落ち込んでいました。新しい軽自動車が売れなければ、国内の工場や販売店で働く従業員をリストラしなければならないところまで追い込まれていたのです。

 そして自動車レースの世界最高峰、F1世界選手権のパワーユニット開発の責任者を務めることになった2017年シーズン、ホンダはバッシングの嵐の中にいました。ホンダは2015年からパワーユニットサプライヤーとしてF1に復帰し、イギリスの名門マクラーレンと組んで第4期のF1活動をスタートさせていました。ところが、ホンダが開発したパワーユニットにトラブルが続出し、マクラーレン・ホンダは完走さえままならない状態でした。

 開発チームはパートナーを組むマクラーレンから非難され、世界中のメディアやファンから叩かれ、ホンダの本社筋からも「膨大な予算を使っているのにブランド価値を落としているじゃないか。F1なんかやめてしまえ」と責められていました。ホンダのF1プロジェクトは窮地に陥っていたのです。

 このように私は少なくとも3度の大きな危機に直面しています。それでも初代オデッセイは発売されると爆発的な人気となり、ホンダは経営危機から脱出。反転攻勢のきっかけになりました。