画像出典:本田技研工業公式HP

 ホンダF1を30年ぶりの優勝へ導き、F1最強のパワーユニット開発の指揮を執った元ホンダ技術者・浅木泰昭氏。大きな危機に幾度も直面しながらも、オデッセイのヒット、大人気軽ワゴンN-BOXの開発など数多くの成功を収めてきた。本連載では、『危機を乗り越える力 ホンダF1を世界一に導いた技術者のどん底からの挑戦』(浅木泰昭著/集英社インターナショナル)から内容の一部を抜粋・再編集し、稀代の名エンジニア・浅木氏が、危機を乗り越えて成功をつかむ過程を追う。

 第3回は、ホンダ初のミニバン・オデッセイの開発と、浅木氏が直面した「技術者としての最大の危機」を振り返る。

<連載ラインアップ>
第1回 「世界のホンダ」を襲った3度の大きな危機と、反転攻勢のきっかけとは?
第2回 開発現場にふらっと現れた本田宗一郎氏、社員を困惑させたひと言とは?
■第3回 初代オデッセイ開発を通して名エンジニアが得た「大事な教訓」とは?(本稿)
第4回 ホンダ社内ではバッシングの嵐、逆境のF1部門で名エンジニアが採った施策は?
第5回 F1で優勝してもパワーユニットメーカーには「分配金ゼロ」、ホンダはいかに存在を示すか

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古い成功体験は邪魔になる

 当時、社内の上層部には、私たちが開発していたミニバンのことを“温泉車”と揶揄(やゆ)する人もいました。社員旅行などで温泉に宴会に行ったとき、駅前から温泉まで送迎するマイクロバスの小型版というイメージがあったのだと思います。

 そもそもミニバンという概念が、その頃の日本にはありませんでした。多くの人が乗れて、たくさんの荷物を積める車といえば、トヨタのハイエースや日産のキャラバンのような商業用につくられたワンボックスカーしか選択肢はなかったのです。

 私たち開発チームからすれば、ミニバンは子育てのための車です。子どもを学校に送迎したり、家族全員で買い物やキャンプに出かけたりするときに乗る車なのですが、それまでのホンダは主にセダンとクーペで急成長してきた会社です。

 私たちが「セダンとバンが融合した、これまでにない新しいファミリーカーの時代が日本にも来ます」と、その必要性をいくら訴えても「ファミリーカー? 別にセダンでいいじゃないか」と上層部から言われ、議論がまったく嚙(か)み合いません。

 ホンダはもともと2輪と軽自動車でスタートしたメーカーですが、当時の会社の役員はセダンとクーペの開発に関わった人たちばかりです。彼らは自分たちの成功体験から外れたことは否定して、新しいことをなかなか認めようとしませんでした。

 成功体験は「自信を得る」という意味では重要ですが、何か新しいことに挑戦するときには、逆にその「成功体験に縛られてしまう」可能性があります。そうすると同じことをしているにもかかわらず、世の中が変わっているので同じ結果にはならず、むしろマイナスの結果を生み出してしまうことにもなりかねません。

 特にファミリーカーのような世の中の変化に対して柔軟に対応した商品を出そうとすると、古い成功体験は邪魔になることが多い。私は初代オデッセイの開発を通じて、技術者として大事な教訓を得ることになりました。