台湾、蓮池潭の関羽像 写真/pespiero/イメージマート

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?

関羽の敗死と、3人の英雄記としての三国志の終焉

 多くの三国志ファンにとって、三国志の終わりとは、恐らく劉備配下の武将だった関羽の敗死でしょう。220年の樊城包囲戦で魏と呉の連携によって敗れ、呉の武将朱然に関羽は捕えられて斬首されました。1万の兵士に匹敵すると敵から恐れられた猛将、関羽の敗死は一つの時代が終わる合図となっていきます。

 2か月後の同年3月には曹操が死去、翌年の221年には張飛が部下に暗殺され世を去ります。関羽の仇討ちのために呉に攻め入った劉備と蜀軍は、呉の陸遜の火計によって222年に大敗、翌年223年に劉備は白帝城で病死。英雄たちは次々退場していったのです。

 後漢の崩壊後、最大勢力だった袁紹と曹操が雌雄を決した官渡の戦いは200年。この200年から関羽の死である220年までの20年間こそ、曹操、劉備、孫権の3人のリーダーが英知を尽くして争った時間、『三国志演義』が躍動感を持って私たちに語る英雄たちの時代だったのです。

 今回の記事では、関羽が敗死した220年から、次の区切りである孔明の死去(234年)までの期間について、関羽、曹操、劉備たち英雄の退場後に活躍したリーダーを分析し、次世代の育成について考察をしていきます。

関羽死後、孫権を中心とした第2世代リーダーと若き武将たち

 正史では、関羽の生年は不明であり敗死したときの年齢もはっきりしていません。劉備は161年の生まれのため、関羽死去の220年には59歳です。もし劉備よりも関羽が若いとしても、50代半ばあるいは少なくとも50代前半の年齢で世を去ったと推測できます。

 関羽を生け捕った呉の朱然は182年生まれ(孫権と同じ年)であり、関羽と対峙したときの朱然は38歳でした。朱然は孫権より3年早く、249年に亡くなりますが、その期間ほぼ呉の武力の中心人物として活躍します。

 孫権と朱然(共に182年生まれ)の同世代は、蜀であれば諸葛亮(181年生まれ)、魏であれば司馬懿(179年生まれ)郭淮(生年不詳だが同年代と推定)、呉では朱桓(177年生まれ)、陸遜(183年生まれ)となるでしょう。関羽死後は、孫権を基準とした第2世代のリーダーと同年代配下の戦いだったといえるのです。

 ちなみに、魏で初代皇帝となる曹丕は187年生まれです。魏の初代皇帝の曹丕は、父の曹操が死去した220年の暮れに帝位につきます。彼はそのとき33歳ですが、以後死去する226年まで呉への大軍での侵攻を何度も行います。

 しかし、曹丕の大規模な軍事進攻は、呉の孫権の巧みな用兵と人材活用、人材配置の前に連敗。220年に関羽を敗死させたときから、諸葛亮の死去の234年前後までは、実は呉の孫権がリーダーとして最高の力を発揮したまさに絶頂期でした。