5人の密室協議で誕生した森政権

 2000年4月2日、時の首相・小渕恵三氏(在任1998年7月〜2000年4月)が突然、脳梗塞で倒れました。緊急入院先では昏睡状態だったとされています。その際、官房長官だった青木幹雄氏ら5人が善後策を協議。青木氏は、小渕首相の指名を受けたとして首相臨時代理になり、その後、5人は首相官邸近くのホテルで話し合いを続けて森喜朗氏(在任2000年4月〜2001年4月)を次期総裁に指名します。

 しかし、疑念も残りました。意識がなかったという小渕氏は、いったいどうやって青木氏を臨時首相代理に指名できたのでしょうか。その点も含め、5人による密室協議の内容はほとんど明らかになっていないのです。

図:フロントラインプレス作成
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 たった5人の話し合いで次期総裁に選出された森氏は、衆参両院議員総会の話し合いを経て正式に自民党総裁となりますが、これが結党以来11回に及んだ「話し合い選出」の最後でした。

 総理総裁の座が転がり込んできた形の森喜朗氏は、清和政策研究会(1979年に福田赳夫元首相が創設、後の安倍派、以下では清和研)のメンバーでした。保守本流とされた宏池会(1957年に池田勇人元首相が創設、後の岸田派)の実力者が首相を何度も務めるなか、清和研にはなかなか総裁の座が回ってきませんでしたが、森氏が宿願を果たす形で総裁になったのです。

 しかし、森氏は失態を重ね、常に国民の批判を浴び続ける状態でした。就任直後には神道政治連盟国会議員懇談会の会合で「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民のみなさんにしっかりと承知していただく」などと述べ(「神の国」発言)、窮地に立たされます。

 さらに、米海軍の原子力潜水艦が高校生を乗せた実習船「えひめ丸」を沈没させた事故では、報告を受けた後もゴルフ場でプレーをやめなかったことが危機管理姿勢を欠いていると激しく批判されました。

 このゴルフが支持率低迷に拍車をかけ、ついに9%にまで落ち込みました。このときが自民党にとって最大の危機だったのかもしれません。

 ところが、この窮地を救う人物が現れました。