自民党総裁選に出馬表明した小林鷹之氏(写真:つのだよしお/アフロ)

自民党総裁選の日程が、2024年9月12日告示、同27日投開票と決まりました。自民党は一連の裏金事件で信用を失い、支持率を大きく減らしましたが、総裁選で人心一新を図り、党への信頼回復を果たしたい考えです。国民の間では「これで裏金事件がうやむやになるのか」「利権とカネの政治にはうんざり」といった声が止まりませんが、自民党は過去に何度も崖っぷちに追い込まれながら結果的に危機を切り抜けてきた歴史を持っています。では、自民党はこれまでどんな総裁選を繰り広げてきたのでしょうか。そこにカネや利権はどう絡んでいたのでしょうか。やさしく解説します。(前編/後編の前編)

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「カネとポストを乱発」は、どう始まった?

 現在の自由民主党は、1955年11月に自由党と民主党が合併する「保守合同」によって誕生しました。以来、69年の間に44回の総裁選が行われています。ただ、この数には候補者が1人しかいなかった、話し合いで次期総裁が決まったなどのケースも含まれており、すべてが激しい選挙戦だったわけではありません。

 自民党として最初の総裁選は結党の翌年でした。

 保守合同による新党結成後、自民党は総裁代行委員制を敷いて地方組織の確立に励み、半年足らずで都道府県ごとに支部連合会を結成させます。そして1956年4月に臨時党大会を開催。国会議員に地方代議員を加えた総裁選挙を行い、初代総裁に旧民主党系の鳩山一郎氏を選出しました。

図:フロントラインプレス作成
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 得票数は鳩山氏の394票に対し、2位以下の10人はいずれも1ケタ。有力候補だった緒方竹虎氏が直前に急死したことから、総裁選は信任投票の色合いが濃いものとなりました。

 鳩山氏の引退を受けた第2回の総裁選は、同じ1956年の12月に行われました。これが自民党としては、初めての本格的な選挙戦となります。

 立候補したのは、岸信介、石橋湛山、石井光次郎の3氏。第1回投票では、岸氏がトップ(223票)で、2位は石橋氏(151票)、3位は石井氏(137票)でした。誰も過半数を獲得できなかったため、舞台は岸氏VS石橋氏の決選投票に移ります。ところが、このとき、2位・3位連合が実現し、決選投票では石橋氏が岸氏を抑えて当選したのです。

 この結果は「世紀の大逆転」などと言われましたが、水面下では凄まじい多数派工作が行われたようです。札束による買収や閣僚ポストを約束して投票を依頼するケースが続出。この総裁選こそ、「カネとポストを乱発して争う原型」になったとされました。派閥の領袖をかついで総裁の座を狙う派閥政治の源流もこの総裁選にあったようです。

 実際、当時の新聞報道などによると、昼間はホテルのラウンジで、夜は料亭で多数派工作が繰り返されたようです。宣伝工作も激しさを増し、永田町では、政治家の私的スキャンダルや裏事情を暴露する宣伝ビラが続出。白昼堂々と国会内でばらまかれました。

 さらに、自民党主流派(鳩山派など)は日ソ国交正常化に絡んでソ連から17億円の資金を受け取っていたとする情報も流れるなどしたことから、党紀委員会は「各派閥間の感情対立をあおり立てている」として怪文書の出所調査を公式に宣言せざるを得ないほどでした。