「ニッカ、サントリー、オールドパー」

  1960年7月の総裁選も対決型でした。

 その頃の日本政治は、日米安保条約の改定をめぐって大混乱していました。「条約の改定で日本は米国の戦争に巻き込まれる」との世論が強まるなか、自民党は国会で改定条約の批准を強行します。デモ隊は国会を取り囲んで構内に突入し、死者が出るほど。そして、混乱の責任をとって岸信介首相(在任1957年2月〜1960年7月)は辞任することになり、12月に総裁選が行われることになりました。

 このときに勝利するのは、池田勇人氏(在任1960年7月〜1964年12月)です。1956年12月の総裁選同様、このときも第1回投票で池田氏は過半数を獲得できませんでした。しかし、決選投票では2位以下の候補を支持していた国会議員らが池田氏に投票。かつての2位・3位連合による大逆転は起きませんでした。

 この総裁選でも“実弾”という隠語で呼ばれた現金が飛び交いますが、カネによる買収工作がさらに激化したのは、池田氏が3選を果たした1964年7月の総裁選です。

3選を果たした池田勇人氏=1964年7月(写真:TopFoto/アフロ)

 態度を鮮明にしない国会議員には、各派閥が相次いで接触していきます。2派から現金をもらうことは「ニッカ」、3派からもらえば「サントリー」、それ以上なら「オールドパー」という隠語が生まれるほど。当時の日本は、「所得倍増計画」を掲げる池田首相の下で経済成長路線を走り始めており、高級品だったウイスキーにも庶民の手が届くようになっていました。

 それに引っ掛けての「ニッカ、サントリー、オールドパー」という言葉が永田町で交わされたのです。

 当時はすでに、「カネまみれの総裁選」の問題点が、新聞の積極的な報道によって広く社会に知れ渡っていました。例えば、1966年12月の総裁選では、読売新聞が1カ月前から「汚れた総裁公選」というキャンペーンを展開。「断ち切れ腐敗政治」「カネより政策を」「野放しの病根に怒り」といった大見出しを付けて真っ向から自民党とカネの問題に切り込んでいました。まるで、2024年の記事かと思えるような見出しです。