日本の長い歴史において「国の守り」が大きく取り上げられることはほとんどなかった。強いて言えば大陸文化を吸収しようとした古代と西洋文化が押し寄せてきた近代の一時期だけである。
従って、日本において「亡国」という意識は育ちようもなく、「国の守り」という遺伝子は日本人に継承されていないようだ。
自民党総裁選は日本の総理大臣選びでもある。
近隣諸国が核兵器の使用を仄めかし、また増産して日本ほど厳しい環境に置かれた国はないし、現実的な対処方策が求められているにもかかわらず、安全保障・防衛がほとんど議論に上がっていない。
安全保障は、領土を脅かされる防衛だけの問題ではない。経済活動が維持される、食糧が確保されることも安全保障である。
8月の初めから顕著になった家庭用のコメの品薄は、国民に困惑と値段の高騰という実害を与えてきた。
国民の主食に関わる農政の失敗と思うが、立候補者たちの誰一人として責任問題に言及しない。いかに安全保障に無関心かという証左である。
これまで3回にわたって、防衛省・自衛隊が倫理観に乏しいとして最高幹部を含む218人が懲戒処分などを受けたことから始まり、根源には政治の無関心があったことを指摘してきた。
(「自衛隊の不祥事はなぜ起きたのか、元幹部が事例を基にその原因を徹底解説」「全くの期待外れ:岸田首相が憲法に自衛隊明記指示で日本の防衛が一歩前進」「有事想定の訓練ができない自衛隊でいいのか」)
自衛隊員の心や防衛力の確保・維持で盲点になっているいくつかの点を指摘して終わりにする。
防衛を引き受ける自衛隊員
国家が繁栄するためには政治、外交をはじめ経済(企業活動)や社会福祉など様々な分野が総合的に機能する必要がある。
従って、すべての国民が防衛だけに関わることは許されない。
そこで、防衛任務は一部の専従者に委嘱して、国民のほとんどは防衛以外の自分に適合する分野で責任を果たすことになる。
国防は国民の責務としてほとんどの国では徴兵制が採用されてきた。しかし、自由や人権、個人の尊重などの思想の進展とともに先進国では職業選択の自由も重視されることから志願制にするところも増えている。
ただ、完全な志願制では国家意識や愛国心などが希薄化し、国家の存続にとって由々しき事態も発生しかねない。
そこで、志願制と言いながら一部の強制(短期間でも軍隊経験させるなど)を残したり、徴兵制を一部緩和(勤務年数の短縮化など)するなどの工夫を凝らしている国など様々である。
いずれも防衛は国民すべての義務とした上での処置であるが、日本国憲法には「防衛の義務」規定がない。
他方、憲法22条で国民は公共の福祉に反しない限り、居住、移転、職業選択の自由が保証されている。
従って、いかに防衛が大切だからといっても国民をその任務に縛りつけることはできない。
極論すれば理論的には誰一人「防衛」の任につかないことさえありうる。しかし、それでは古今東西の歴史を見るまでもなく国家が存続することはできない。
有り難いことに国家を思う有志、すなわち自衛官がおり自衛隊が存在し続けている。
自由や平和は領土・領海・領空(すなわち領域)の平穏が維持されて初めて可能であるがなかなか理解され難い。
領域あっての日本であり、領域を守るのが自衛隊である。
(ちなみに国民の生命や財産を保護し、公共の安全や秩序を維持して社会活動を円滑にするのは警察である)