「試験場に行けばそこに問題が待っている。将棋大会に行けばそこに相手がいる。すべて受動的である」
「ところが数学の研究者になるというのは自発的なものであって、しかもその自発性を持続させなければならない」
「金メダリストになることはできてもそのような自発性がなければどうにもならない。そういう意味で数学オリンピックは真の意味の数学者の世界とは無縁である」
同様のことは、アスリートのオリンピックにも言えるし、筆者の領分である音楽をはじめとする芸術にも完全に当てはまる。
競争に勝つというのは、すでに解答が準備された温室のトラックレースで要領よく立ち回ることに過ぎない。新しいものを何か作り出す、本当の意味で歴史を開拓するのに「使える」ものでは全くない。
では、志村さん自身はどのようなティーンの時期を過ごしたのだろうか?
志村五郎 1930年2月23日静岡県生まれ、2019年5月3日 大阪府没。プリンストン大学名誉教授。
盟友で東京大学助教授に就任したばかりで自ら命を絶った谷山豊(1927-58)の問題を継承しつつ、独自の問題意識から発展させた「谷山・志村予想」は、40年後「フェルマーの最終定理」の証明に決定的に貢献・・・といった内容は、プロがお書きになる原稿があると思うので、ここでは触れない。
前記4冊の第1冊「数学をいかに使うか」の134ページに興味深い具体的な出来事が記されている。
「ここでひとつ、日本語の面白い本を注意しておこう」
「正田健次郎 代数学提要 共立出版」
「初版は1944年で戦中の困難な時代に何とか出版できたのであって、私は1945年戦後すぐに出た再版をその年の12月に4円20銭で買っている」
「私は旧制高校1年のとき、これで代数学の初歩を学び、少ししてから van der Waerden の( Moderne Algebra Springer 1930)を読んだ」(「数学をいかに使うか」p.134)
とある。細かな資料がないが1929年度生まれの志村さんが旧制中学を4年で修了して高校に進んだとすれば17歳になる1946年年度、つまり終戦の年15歳だった志村少年は中学生として、かなり高価な正田健次郎「代数学提要」を暮れに購入し、翌年これを読んだものと察せられる(志村「記憶の切絵図」筑摩書房の記載に準拠)。