あえて実名を記すなら、かつて中学3年生だった微分幾何の宇澤達さん(名古屋大学教授)は、自由研究で考えた問題について正田先生に質問に行き、比較的読みやすい最先端の原著を手渡されるとともに、紹介された小平邦彦(1954年フィールズ賞)教授を訪ね、指導を受けることができた。

 しかし、当時の彼はその自由研究をまとめることができなかった。

 そんな宇澤さんが数年後、今度は自身が中学の非常勤講師として同様の指導をした中に、岩田覚君という少年がいた。岩田君は中三時代、やはり質問に行って宇澤さんから手渡された微分幾何の原著を高校1年次、自主的に学んだ。

 そこで頭を使い、モース理論と呼ばれる分野の系を自力で証明することができた。その自由研究で宇澤少年がまとめることのできなかった論文をまとめて賞も得た。

 岩田氏は現在東京大学工学部計数工学科の教授として後進の指導に当たっており、詳細は分からないが、同様の指導をしているのではないかと想像する。

 私は10学年ほど離れた両者のちょうど中間の学年に位置しており、独立してご両人からこの経緯を聞いていた。

 数学オリンピックのような出来合いの競争ではなく、数学という大河の本筋から、自分で見つけた問題について、成果を出すことができた幸運なケースの一つとして紹介したものである。

 正田健次郎氏の指導方針とその伝搬の成功例として思い当たったものである。事前にお断りせずご両人の御名前を挙げたが、弔辞であり、ご宥恕願いたい。

 1945年、空襲で焼け野原となった日本で、中学3年の志村少年が何を思って正田さんの本を手にしたかは分からない。高価な本を、少年は思い切って購入したことだろう。

 80歳を過ぎても価格を鮮明に記憶する志村さんの意識からそれと知れる。

 そして、紛れもなく確かなことは、その7年後、旧制高校と大学を卒業した志村氏が、1952年から東京大学の入試出題側に回るとともに、ヴェイユやシュヴァレーと丁々発止の創造的議論で白熱する第一人者に育った事実である。

 こうした経緯は決して偶然によるものではない。