それで選抜試験として意味があるか?

 ない。少しでもきちんと建設的に思考し、解答に反映させることができれば、その分を評価する・・・。

 これは入試などという人工的なビニールハウスだけの仕儀ではなく、その後の長い人生で、社会人としてあらゆる局面で通用する、不易流行と言っていいだろう。

 志村さんは、そういう意味で「数学をいかに使うか」と言っておられる。

 そして、その本来の攻略目標として、数学というもの、それ自身の本質的な問いに、スケールの大きな、またこの人ならではの、オリジナルな問題意識をもって取り組み、明らかに人類の数学史に貢献する成果を残して、89歳で逝去された。

数学オリンピックへの警鐘

 志村さんの、極めて真っ当で健全な問題意識は、受験に特化したおかしな出題傾向のみならず「数学オリンピック」という制度にも警鐘を鳴らしている。彼自身の表現を引いてみよう。

 「数学オリンピックについて言えば、それで良い成績を得た人が実質的に得るものはほとんどない。単なる競争であって、ちょっと小・中・高校生の将棋や囲碁の大会と似ているところがある」

 「・・・ところが、数学オリンピックの問題はプロの数学者が考えていることとは全然関係ない。もっとレベルの高い問題をやっているわけではない。数学オリンピックのはすでに解答のある問題でもある」

 「私はテレビでそういう将棋大会の優勝者に向かってプロの棋士が『将来将棋を専門にやってゆくつもりですか』とたずねているのをみたことがある」

 「実際優勝者がプロになった例は少なくないと思う。同様に数学オリンピックの金メダリストに『将来数学者になるつもりですか』という質問がなされているかどうか私は知らない。また金メダリストがその後どうなったかも知らない」(同書p.31)

 志村さんの「使える」がはっきり分かる指摘と思う。

 つまり、数学オリンピックという特殊な競争ゲームに勝っても、またそれをマスコミなどがちやほやしたとしても、それはおよそ彼あるいは彼女のその後の生涯に直接「使える」ものではない、という事実を志村さんは淡々と指摘される。