藤原京はわずか16年、長岡京は10年と、古代日本の都は短命だった。写真は平城京跡(写真:miyahara_ryusei/イメージマート)
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 藤原京はわずか16年、長岡京は10年と、古代日本の都は短命だったが、平安京は千年以上にわたり都であり続けた。なぜ都は安定せず、何度も移動を繰り返したのか。なぜ平安京を最後に「遷都の文化」は姿を消していったのか。『宮殿の古代史 飛鳥から藤原、平城、平安へ』(集英社)を上梓した海野聡氏(東京大学大学院准教授)に話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)

──古代日本では天皇が代替わり(即位)するたびに宮殿の場所を移す慣習がありました。一代ごとに宮殿を移す理由として、どのようなことが考えられますか。

海野聡氏(以下、海野):古代日本では、天皇は独裁者として存在していたわけではありません。有力な貴族や豪族といった勢力の支持基盤があってはじめて、「天皇」として即位できました。

 天皇を支持する勢力もまた、天皇の代替わりとともに変わることがあります。すると、その勢力が支配する地域に都を移す必要が生じたと考えられます。

 加えて、一代ごとに場所を移し、宮殿を造り変えることで、新しい天皇の治世に移るということをアピールする目的があったと思われます。

──日本の古代宮殿を説明する上では欠かせない「大極殿院」「内裏」「朝堂院」という言葉が出てきました。これらは、それぞれどういったものでしょうか。

海野:最もなじみがあるのは「内裏」ではないでしょうか。これは天皇の拠所、今で言えば皇居に当たります。一方の「朝堂院」や「大極殿院」はやや公的な場です。朝堂院は、いわゆる役所仕事や外国の使節団のもてなしの宴会をする場として使われていたと考えられます。

 さらに、大極殿院は、特殊な儀式にのみ使われる格式高い場でした。天皇の即位や元日の朝賀などの儀式に使われていたようです。

──前期難波宮では古代宮殿に大変革が起こったとありました。これはどのような変革で、その後の日本の宮殿にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。

海野:前期難波宮は、初めて朝堂院が造られた宮殿です。それまでの宮殿は天皇の拠所に近い部分で、広大な空間を使うことはありませんでした。

 この朝堂院という空間は、その後、藤原京、平城京、そして後期難波宮、長岡京、平安京でも公的な場として造られました。朝堂院は平城京に移ると2つ造られるようになります。中国の宮殿にも朝堂というものはありますが、日本の宮殿のように広大な朝堂院はこれまで発見されていません。朝堂院は、日本独自の宮殿の特徴だと言えます。