宮殿が北側に置かれたのはなぜか?

海野:中国には、為政者が南側を向いていると社会をうまく治めることができるとする、「天子南面す」という思想がありました。したがって、天皇の拠所や政治の中心となる場を最も北側に置き、南を見渡せるような形状にすることが宮殿と都の条件でした。

 また、一番北に宮殿を置くと、そこから南方に伸びる朱雀大路という道路が非常に長くなります。平城京では幅70メートル程度の朱雀大路が、約4キロメートルにわたって走っていました。この規模は、都城の威容を示す象徴的なものです。

──784年には、桓武天皇が平城京から長岡京へ遷都しました。

海野:この遷都の一因は、交通の便によるものでした。平城京は奈良盆地の北側にあり、水運が主要な交通手段でした。例えば木材を運ぶ際、木津川で京都の木津市あたりまで行き、そこから陸路で山を越えて運ばなければなりません。道路や電車がない時代、これはかなり効率の悪い運搬方法でした。

 そういった意味で、水運がより良い場所に遷都したほうがよいと桓武天皇は考えたようです。近くに桂川、宇治川、木津川が流れる京都市中心部のやや南西部は、水運の便が良い都として最適な場所だったと考えられます。

──その長岡京も、遷都からわずか10年後の794年に平安京に都が移され、短命に終わってしまいました。

海野:それには、複数の理由があります。一つは、先ほど長岡京が川に近いところにあったという点です。これは、先述したように水運が良いというメリットはありましたが、氾濫の危険が高いというデメリットがあります。

 また785年、長岡京への遷都を主導した重臣・藤原種継が暗殺されるという不吉な事件が起こり、政局が混乱しました。この時に、桓武天皇の弟である早良親王が事件に関わっているとされ、幽閉・流罪に処されます。そして、流刑地へ向かう道中、早良親王は死去しました。

 その後、都では災害や疫病が続き、これが早良親王の怨念であると認識されました。邪念が都に集まっていると受け止められたのです。

 日本の伝統的な考えとして、ある場所が悪ければ、別の場所に移して穢れを払うという思想があります。このような経緯から、都を別の場所に移そうという議論が出てきたのではないかと考えられます。

──桓武天皇による平安京への遷都以降、日本では遷都の文化が薄れていきます。この背景には、どのようなものがあるのでしょうか。