織田信長が示した「権力の象徴」としての内裏再建
海野:遷都は、水運などの交通の便の問題がある場合や、天皇の政権が不安定な場合に行われます。平安京は水害はありましたが、地盤が安定した地に築かれ、水運の良い極めて完成度の高い都で前者はクリアしていました。
一方で、平安時代には、律令制が社会システムとして成熟しており、天皇という存在がその中に組み込まれていくようになります。平安時代中期以降には摂関政治(※1)、平安時代後期には院政(※2)が行われるようになります。
※1:天皇を補佐する立場の摂政・関白が、実質的に国政を主導した政治体制を指す。主に藤原氏が外戚(天皇の母方の親族)として権力を独占した。
※2:天皇が退位して上皇(法皇)となった後も、院(いん)から実権を握って政治を行った体制を指す。
すると、誰が即位するのかという点と同時に、実質的に誰が政治を動かすのかということに重点が置かれるようになります。代替わりをアピールするための遷都の必要性はなくなる、ということです。
──鎌倉時代以降、日本では武家政権が続きます。武家政権と宮殿の関係性はどうでしょうか。
海野:まず、天皇と武家の関係性について説明します。政権運営を武家が担っても、彼らが天皇を排除しなかったことは周知のことだと思います。天皇が存在した上で武家がそれに対して奉仕をし、実質的に政治を動かしていたという関係です。
その「奉仕」の中でも、天皇の内裏を含む宮殿を造営することが、武家の中でステータスであったのは事実です。それができるのは武家の中で頂点に立つ者のみという認識が続きました。鎌倉時代、室町時代、そして江戸時代と、内裏の造営は幕府の重要な仕事の一つでした。
──内裏の造営が幕府の負担になるようなことはなかったのでしょうか。
海野:もちろん負担でした。そのため、鎌倉時代以降は平安宮のような完全な仕様の宮をつくろうという動きはありませんでした。一方で、天皇やその周辺の公家たちにとっては、きちんとした宮殿を造ってもらうことは重要です。そのため、武家側との交渉が発生しました。
権威を見せつけるために、内裏の造営に積極的だった武士もいます。織田信長です。1569年(永禄12年)に、信長は荒廃していた内裏の再建・整備を主導し、戦国時代に機能不全に陥っていた内裏を復興させました。
──古代の宮殿を研究する際のモチベーションについて教えてください。
海野:神社仏閣などの宗教建築と比較して、日本の宮殿建築はそれほど多く残されていません。けれども、宮殿建築は日本の建築史の中で、その時代時代の最高級の技術の粋を凝らしたものです。それがどのようになっているのかとても気になります。

もう一つ、古代では社会システムとして律令制があり、「木工寮(もくりょう)」と呼ばれる宮殿の新築・修理や公共施設の維持管理を担う機関も存在していました。現代のような建機がないにもかかわらず、木工寮が主導する都や宮殿の造営は統率がとれており、極めて短期間で行われたようで、とても興味深く感じています。
──今後、研究で明らかにしていきたいことがありましたら、教えてください。
海野:宮殿の研究を通して、当時の宮殿の中での生活やそれを支えるインフラについて、解き明かしていきたいと思っています。
宮殿の発掘調査は、まだ十分に進んでいるとは言えません。宮殿の中で、政治の実務がいかにして執り行われたのか、饗宴の食事をどこでどのように準備をしていたのか。宮殿そのものを通して、それを支える舞台裏や人々の動きを見ることで、古代社会に対する理解をより深められるのではないかと思っています。
海野 聡(うんの・さとし)
東京大学大学院准教授
1983年、千葉県生まれ。2006年、東京大学工学部建築学科卒業。2009年、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程中退。奈良文化財研究所研究員などを経て、現職。博士(工学)。主な著書に『古建築を復元する』(吉川和文館)、『奈良で学ぶ 寺院建築入門』(集英社)、『森と木と建築の日本史』(岩波書店)などがある。
関 瑶子(せき・ようこ)
早稲田大学大学院創造理工学研究科修士課程修了。素材メーカーの研究開発部門・営業企画部門、市場調査会社、外資系コンサルティング会社を経て独立。YouTubeチャンネル「著者が語る」の運営に参画中。