関ヶ原の合戦は従来のイメージとはだいぶ異なっていた?(写真:beauty_box/イメージマート)
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 関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が天下を取った。これが、私たちが思い浮かべる「関ヶ原の合戦」と「徳川家康」像だ。しかし、一次史料を丹念に読み解くと、そのイメージは大きく揺らぐ。秀吉は死の直前、政権運営を家康に託していた。つまり、合戦前から家康は天下人だったのだ。

 ではなぜ、関ヶ原の合戦は起きたのか。『シン・関ケ原』(講談社)を上梓した高橋陽介氏(歴史研究家)に話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)

家康は合戦前からすでに天下人だった

──「関ヶ原の戦いは、『家康が天下取りのために仕掛けた戦』という文脈で語られがちである。だが(中略)合戦が起きる前から、家康はすでに天下を取っていた」とありました。

高橋陽介氏(以下、高橋):一般的に徳川家康は、豊臣政権を乗っ取り自身が天下を治めようと画策した人物として捉えられています。関ヶ原の戦いはその過程で起こった戦闘であり、勝利をおさめた家康が結果的に天下を取ったと思われています。

 けれども、豊臣秀吉は亡くなる約2カ月前に、居並ぶ諸大名の前で自身の嫡子の豊臣秀頼が成人するまで、政権運営を家康に託すことを依頼しています。これは当時の一次史料から明らかで、豊臣の天下を乗っ取ろうとした形跡は一切見られません。

「秀吉は家康に天下を託して亡くなった」「関ヶ原の戦いの前から家康は天下人だった」という前提で史料を読み進めていくと、関ヶ原の戦いは、従来の「天下を取ろうと企む家康」対「それを阻止しようとする石田三成」という図式とはかけ離れた見方ができます。

西軍決起の主導者は石田三成ではない

──「家康を豊臣政権から排除する」という動きを始めに見せたのは石田三成ではなく、三奉行の増田長盛、長束正家、前田玄以であると書かれています。彼らはなぜそのような策略を巡らすに至ったのでしょうか。

高橋:1600年(慶長5年)の会津征伐がきっかけでした。五大老の一人である上杉景勝が自身の領地である会津で城郭整備や兵備増強を進めたことを、「謀反の兆し」とみなした家康が諸大名を動員して会津に向かったものです。

 三奉行は、秀頼に代わって政権を取り仕切る家康が大坂を離れるべきではない、と家康を制しました。しかし、それを振り切って家康は大坂を出発。三奉行、特に増田長盛は家康のこのような行為は秀吉の遺志に反するものとして、反家康クーデターを起こすことを決意しました。

 増田長盛は、家康とややともすると対立しがちな毛利輝元と連絡をとり、輝元を広島から大坂に呼び寄せ、西軍決起に至ります。このとき、西軍の総大将として担ぎ上げられたのは、石田三成ではなく毛利輝元です。これが1600年7月19日のことです。