家康が把握していなかった「本当の首謀者」
──毛利輝元には、家康に取って代わって天下を治めようという野心があったのでしょうか。
高橋:毛利家には、毛利元就の「天下に野心を持ってはならない」という遺言があり、天下に固執するような家柄ではありませんでした。ただ、毛利輝元に関しては、家康の地位を奪おうとする野心があったのかもしれません。
反家康クーデターの気配を感じ取った当時の後陽成天皇が、大坂に使者を下したところ、前田玄以から「毛利輝元がすべてとりしきっています」という返事があった、と御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)(※)に書かれています。
※室町時代末期から安土桃山時代にかけて、京都・内裏(だいり)で天皇の側近に仕えた女官たちが交代で記した日記。実質、天皇の日記とも捉えられる。
この一節は、家康に代わって毛利輝元が豊臣政権を支配する立場となったと朝廷に報告されたとも解釈できます。
──書籍には「内府ちかいの条々」が登場しました。
高橋:これは、家康に対する弾劾状で、増田長盛が起草したものと思われます。現代でいう「宣戦布告」のようなものです。
内府ちかいの条々が発せられたのは1600年7月17日のことです。家康がこの内容の詳細を知ったのは7月28日で、それまで家康は上方で異変が起こっていることを知らされてはいましたが、石田三成と大谷吉継による小規模な反乱だと認識していました。
7月26日には、家康は福島正則、徳永寿昌、黒田長政、長束正家、田中吉政、京極高次、京極高知、加藤貞泰、織田秀信らに石田三成と大谷吉継の討伐を命じ、自身は翌日、宇都宮から小山(現・栃木県小山市)に引き返します。
このとき、家康は三奉行に信頼を寄せており、彼らにも鎮圧に関して指示を出していました。
──謀反の首謀者が三奉行であると知らされた家康は、どのような対応をしたのでしょうか。