「裏切り者」像はどのように作られたのか

──なぜ後世になって「小早川秀秋は合戦が始まってから西軍を裏切った」と言われるようになったのでしょうか。

高橋:実は、これは江戸時代初期には既に言われていたことです。

 1688年頃に成立した『黒田家譜』によると、小早川秀秋は西軍・東軍どちらにつくか決めあぐねた状態で松尾山城に布陣。関ヶ原の合戦中に家康から鉄砲を撃たれたが動かず、東軍の勝利が確定してから東軍について、西軍へ攻めかかったとあります。

 当時はメディアのない時代ですから、情報は噂として広がっていきます。人々は面白い話を求めていますので、小早川秀秋に関する裏切りについても『黒田家譜』にあるようなフィクションが好まれ、広がっていったのだと思われます。

 なお、『黒田家譜』には、小早川秀秋は「家康から鉄砲を撃たれても動かなかった」とありますが、現代では「鉄砲を撃たれて東軍につくことを決意した」と言われています。これも、後者のほうが多くの人を楽しませる内容だったため、どこかで話がすり替わっていってしまったのだと考えられます。

──関ヶ原の合戦前夜の9月14日の夜から15日の朝にかけて、東西両軍の「惣和談」が成立したとあります。これは、どのような状態なのでしょう。

高橋:「惣和談」とは、徳川家康と毛利輝元の和談です。つまり、戦いを止めることが決まっていたのです。

──にもかかわらず、なぜ関ヶ原の合戦が起こったのですか。

高橋:関ヶ原の戦いが起こったのは、9月15日のことです。当時は強固な通信網が整備されていたわけではありませんので、「惣和談」が周知されるまでに時間がかかったのでしょう。

──「惣和談」が早期に周知されていれば、関ヶ原の合戦は起こらなかったということでしょうか。

高橋:歴史の「たられば」は難しいですが、どこかで何かしらの戦いが起こったのではないかと私は思います。

 と言うのも、9月15日に西軍に「惣和談」を知る者はいませんでしたが、東軍の福島正則と黒田長政らは和睦が成立したことを知っていました。ところが、両者は関ヶ原の北側の山中で石田三成らと交戦しています。

 これは、裏切りが確定した小早川秀秋を石田三成らが攻めようとするのを福島正則と黒田長政らが止めに入ったためと考えられます。