豊臣秀吉像

(歴史家:乃至政彦)

江戸時代に「無体」と非難された男色

 豊臣秀吉と男色の関係イメージを眺めていると、大元の逸話が拡大解釈されている感がある。

 まず男色(なんしょく)とは何かを説明しておこう。

 男色は、上位の年長者が下位の年少者を抱く関係であった。

 端的にいえば性的な搾取であるが、そこから純愛に発展していくこともある。これは現代の芸能界や風俗世界でもあることだろう。

 戦国時代は、武士の間で男色が流行したが、成人男性同士というわけではなく、多くは大人の武士と少年の小姓との関係であった。

 そして性的に愛玩される少年たちの間には不本意なものも少なからずいたことは想像に難くない。実際に、江戸時代前期には武士が男色を行なうのは少年に「無体」なことだからと、禁止令が発せられている。

 ということは、武士の中にも、「男色は楽しい、大好きだ」と思う層と、そうではない層の両方がいたということである。

 よく「男色は武士の嗜みだった」というが、これは根拠のない現代人の一解釈に過ぎない。

豊臣秀吉と男色の逸話

 さて、豊臣秀吉である。

 秀吉には、こんな逸話があると、インターネットやライトな歴史の書籍でよく語られている。

 武士ならば誰でも関心があるはずの男色に、天下人の秀吉はまるで関心を寄せなかった。家臣たちは、「殿下が武士出身ではなく、百姓出身だからかもしれないぞ」と、その趣味を訝しんだ。

 そこで気の利いた家臣が評判の美少年を呼び出し、秀吉と2人きりになるよう仕向けた。ところがこの少年はすぐに秀吉のもとを辞した。家臣がどうだったか聞いてみると、「太閤殿下は、私に『お前に姉か妹はいるか?』と尋ねただけで返しました」と答えた──。

 秀吉はとんでもない変人だったのだという。

 ここでこの逸話の初出史料を見てみよう。