「男衾三郎絵詞」東京国立博物館蔵 出典:Colbase 男衾三郎の屋敷の前で通行人が襲われている。彼らは弓矢の的として狙われた。

(乃至 政彦:歴史家)

 一般的に儀礼の行列から発展したと考えられている「大名行列」。この行列の編成様式に注目した歴史家・乃至政彦氏は、その起源は上杉謙信が武田信玄に大勝した「川中島合戦」の軍隊配置にあったと解く。平安時代の天皇の行幸から、織田信長、明智光秀、伊達政宗ら戦国時代の陣立書、徳川時代の大名行列や参勤交代の行列まで、「武士の行列」を大解剖した乃至氏の書籍「戦う大名行列」の発売(電子&web版のみ)を記念し、第二章「中世初期の兵科別編成」の内容を抜粋して紹介する。

中国・韓国と日本の朝廷の違い

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、武士たちがやりたい放題に動いている。

 これを見て不思議に思わないだろうか。中国や韓国の時代劇や歴史劇を思い浮かべてもらいたい。そこに日本の武士のような存在はない。武士たちは私兵である。

 そんなものが土地を持ち、その奪い合いに執着して互いに争う。あるいは首都の治安を担当しようとして権力闘争をする。

 中国や韓国の朝廷のようにちゃんとした官軍がいたら、地方で私兵を養う豪族たちがこのように振る舞えるわけではない。

 ところが中世日本の場合は、そうした官軍どころか警察らしいものも姿が見えない。これはどういうことだろうか。

武士登場以前の古代兵制

 武士が登場する以前、7世紀から10世紀過ぎまでの日本は、中国・朝鮮との緊張関係から、大陸の軍隊と比肩しうる画一的な軍隊を創出しようとしていた。そこで大陸風の軍隊が導入された。五人隊長や千人部隊など、五人単位による隊伍と隊列が整備されたのだ。そこで日本では中国式の編成方式をそのまま継受することにした。俗っぽく言えばパクりである。

 当時の軍隊構成を記す『養老令』宮衛令によると、「一隊」は「先鋒」25人と「次鋒」25人の2陣、合計50人で構成されている。さらに軍防令の「軍団大毅条」には、「軍団は大毅が1000人を統率し、少毅がこれを補佐する。校尉は200人。旅帥100人。隊正50人」とあるが、唐(中国)の軍令にも「校尉が衛士200人の団を有し、隊正は50人の隊を有する」という同式の軍制(『唐令拾遺』)があり、これをそっくり受け継いだことは間違いない。

 だが、日本は軍隊の強化と並行して対外関係の改善に努め、中国や朝鮮との全面戦争を回避することに成功した。こうして仮想敵国を失った古代日本の軍隊は、その矛先を西側ではなく東側へと転じる。そこには蝦夷があった。

 古代日本の軍隊は蝦夷への侵略を進めるが、ひとつの壁に突き当たる。蝦夷軍が単一国家ではなく、各地に点在する武装勢力の連合だったのだ。蝦夷軍は少数精鋭の散兵である。これと戦うには、密集隊形へのこだわりを捨て、散兵であたるのが望ましい。

 そこで日本は新たに健児を主体とする軍隊を作り出す。

 宝亀11年(780)3月の『続日本紀』に「殷富百姓才身堪弓馬者」(弓馬を使いこなせる富裕な地主)と記される彼らは、官製の訓練を施されたマニュアル通りに戦う普通の歩兵ではなく、現地で力をもつ富裕な百姓からなる少数精鋭の騎兵であった。

 今でいうなら、資本家としての不動産などによる所得があって、豪邸に住み、高級スポーツカーを乗り回し、スポーツジムや道場に通うような強壮の民間人である。ただし古代の富裕な百姓たちが乗り回すのは、スポーツカーではなく軍馬であった。バットモービルを乗り回すブルース・ウェインよろしく武装する資金と鍛錬する時間を得られし者たち。それが武士の前身として現れたのである。

 最強ヒーローチームがすぐそこにいたのだから使わない手はない。ここから朝廷は、官軍や警察の機能と運用を、民間に丸投げすることになる。かれらに任せれば、もう全て安心だ──と思っていたら、そうもいかなかった。