島原陣図屏風(朝倉市秋月博物館蔵)

(乃至 政彦:歴史家)

 一般的に儀礼の行列から発展したと考えられている「大名行列」。この行列の編成様式に注目した歴史家・乃至政彦氏は、その起源は上杉謙信が武田信玄に大勝した「川中島合戦」の軍隊配置にあったと解く。平安時代の天皇の行幸から、織田信長、明智光秀、伊達政宗ら戦国時代の陣立書、徳川時代の大名行列や参勤交代の行列まで、「武士の行列」を大解剖した乃至氏の書籍「戦う大名行列」の発売(電子&web版のみ)を記念し、序章を3回に分けて公開する(JBpress)。

戦列縦隊でもあった「武士の行列」

 徳川幕府は中世以来打ち続く国内の紛争を克服し、武家社会による⻑期の安定政権を築いた。被⽀配層の百姓万民は天下泰平を享受するかわりに、唯⼀武⼒を有する武⼠層を上位権⼒として認め、⾝分の違いを受け⼊れ、かつ公的に敬意を表する必要があった。

 ⼤名に参勤交代などの公⽤があって遠⽅へと出向くとき、⼤名と供回りを警護する大仰な列がなされた。⼈々はそのたびに好奇⼼と警戒⼼を刺激された。

 われわれが時代劇や博物館でよく⽬にする⾏列像は、服装を正した武⼠たちが駕籠に乗った殿様をお守りする威圧的で儀礼的なものが多い。このため、⼤名⾏列は単なる⾝分確認の⽂化習俗と⾒る⼈も多いだろう。

 だが武⼠の⾏列は、戦闘を前提とした戦列縦隊でもあった類例は海外の軍隊にも存在する。インターネットで「戦列歩兵」を動画検索すれば、海外の戦列隊形がいくつも⾒られる。⼤名⾏列の⽤兵思想もこれと通底するのである。

 想像してみよう。海外の戦列歩兵と⽇本の⼤名⾏列が地平線から互いの姿を視認したときどうなるだろうか。そして、彼らが敵同⼠だったとき、何が起きるだろうか──。

 まず両者は、旗の先導と楽器のリズムに合わせて前進しながら、鉄炮隊が銃撃の⽤意をするだろう。⼤名⾏列は、そのほとんどが最前列に⽕器を並べている。

 彼らは、あまり命中精度の⾼くない銃撃を緩やかに繰り返し、前進する。背後には次の段階に備えた味⽅の歩兵が迫っているので、前に進むほかにない。

 上官(奉行)も逃亡者が出ないように、⻑⼑(薙⼑)などのポールウェポンを⼿にして、歩兵たちの進退を厳しく管理する。

 鉄炮が繰り返し銃撃を続ければやがてむせるような⽩煙が視界を遮ってくる。ここで武⼠古来のメインウェポンがあらわれる。鉄炮の背後に、命中精度の⾼い⼸侍たちが控えているのだ。

 海外の近世軍隊には⼸隊の存在が希薄だが、武⼠の軍隊には⽋かせない主⼒兵科とされていた⼤名⾏列は実戦を念頭に置いた配置であるとともに、武⼠のアイデンティティを誇⽰するものでもあった。

 そして相⼿の顔が視認できるほど近づくと、海外の戦列は、鉄炮を⼑槍のように⾝構えて突進を開始する。いわゆる銃剣突撃である。海外ではそれで敵味⽅の優劣が定まり、勝敗が決したといわれている。

 しかし⽇本の武⼠は違っていた。⼸の次に控える⻑柄の鑓衆が穂先を並べ、敵の前進を阻むことを⽬的として⼀⻫に突進するのだ。織⽥信⻑の⻑柄鑓は6メートルほどもあった。銃剣が勝つか、それとも⻑柄鑓がこれを押さえ込むか──。