春日山城の上杉謙信像

(乃至 政彦:歴史家)

上杉家中のスキャンダル

 戦国上杉家の史料を見るのが趣味な人ならたぶん誰でも知っているが、意外に一般書で紹介されたことのないユニークな事件がある。

 時は元亀2年(1571)から天正4年(1576)までの頃で、謙信が40代の時である。事件は上杉謙信の拠点・春日山城で起きた。事情を知った謙信は、すぐさま、裁きを下さなければならなくなったが、まずは事件の内容から見てもらおう(全3回)。

証人が起こした事件

 まずは事件のあらましから述べよう。

 揚北(下郡。北越後)衆の鮎川盛長は、謙信に服属する証として家臣の須河原(菅原)なる父子を春日山城へ預けていた。当時の言葉でいう「証人」である。

 戦国時代、大名に従う領主は服属の証として人質を差し出し、主君の身近に置いて奉公をさせていた。これら証人には、妻子・親族のほか、重臣が選ばれることがあった。送る側も領主なので身分的な格式があって、1人や2人でなく、多くの人間を差し出していたようだ。彼らは大名の城下に住まい、城下町の形成に一役買っていた。

 須河原は自分の長男および、ほかの証人たちと一緒に春日山城で精勤していたと思われる。弟もいたが、鮎川のもとにいたようだ。ところが須河原の長男がちょっと愚かであった。

 大名は証人たちを、自分で管理するわけではない。自分の家族や重臣に管理させていたのである。謙信もまた、須河原父子を証人として、重臣の吉江景資に証人として預けていた。長男はまだ10代の少年であったらしい。