
「大学なのに、まるで義務教育のような授業だ」
4月15日に開催された財政制度等審議会での財務省による指摘です。
「こんな低レベルが大学だというのなら、私学助成を見直さなければならない」という趣旨で、「教育の質の評価が必要だ」という指摘らしい。
過去30年、様々な大学の教壇に立ってきた一教官としては「よく指摘した、財務省」と評価すべきと思います。
ただ、同時にどうして「大学なのに、まるで義務教育のような授業」をしなければならないのか、その理由を分かっていないとすれば、財務省もまたやや現状把握に不足があります。
そもそも 「大学」にあるのは「講義」と「演習」「ゼミナール」などで、「授業」というのは高等「学校」以下の中等教育の持ち分。
「授業」とは「授ける業」で、「教師」から「生徒」が、もっぱら教わるだけの建付けが「学校」。
これに対して、大学「教授」や「講師」は、単に既存の内容を「授ける」だけでなく、未知の新たな知見を開拓する「研究者」が、若者とその場を共有する「高等教育機関」であるはずです。
ところが、日本の現状は先生からしてサラリーマン化してしまい、およそそんな旧制大学みたいな話にはなっていない話ではあります。
これに対して、文部科学省サイドは「粗い考えだ」と反論しているようですが、文科省サイドが過去何十年にもわたって「考えのない教育行政」をだらだらと続けて来た結果、生じている事態でしかありません。
たとえて言うなら、穴の開いたバケツに水を入れて、いつまで経ってもいっぱいにならない、と言っているのと同じこと。
満タン前提で次に進む話を財務省がしているのに、バケツの穴が開いたまま「粗い考え」もへったくれもないわけで、大本は文科行政の改善、改正にあることが明らかです。
では、いったい何が「穴の開いたバケツ」なのか?
我が国の教育課程が完全に底の抜けたバケツになっているから、必然としてこのようなことが発生しているのです。
そのメカニズムから、丁寧に追ってみましょう。
四則演算を大学で教えなければならないわけ
財務省は、定員割れに陥っている私立大学の授業例で、「四則演算や方程式の取り扱い」(数学)、「現在形と過去形の違い」(英語)などを、大学の公開情報から抽出、評価。
「教育内容の質や人材育成の観点で私学助成額を検討する仕組みへの転換」を唱え、「メリハリを強化していくべきだ」と現在の大学の認証評価制度を見直す考えを示したというのですが・・・。
「四則演算」を教える大学の教育は「質が低い」のか?
私は逆だと考えています。
大学で、「本来なら小中学校で教えるはずの内容」ができていない学生に対して、丁寧に下の学年の教程を補習するのは「リメディアル教育」として既に久しく取り組まれているものです。
というのも、そのまま就職試験などを受けに行って、百分率や割合も分からず就職できずに困る学生を一人でも減らす必要があると大学側が真剣に考え、そのような内容を教えているのだから。
その実は分数の掛け算割り算や通分すら怪しい「大学生」に、分かったような分からないような、カルチャ―センターまがいの「講義」でお茶を濁す大学がいかに多いか。
しかも、「そこそこ以上の(ということになっている)評価を受けている大学」の現実も、残念ながらはっきり知っていますので、補習を行う学校は、むしろ教育に対して熱心だと評価するべきなのです。
ただ、そういう努力をしなければならない(ような学生が長年、大勢を占めてきた)大学で、定員割れが起きているわけです。
そうした教育に財務省から圧力をかければ、四則演算もできない「学卒」を、この少子高齢化の中でさらに増やしかねません。
いずれの役所も末期症状の議論としか、言いようがありません。
ではなぜ、このような最低な状況を作り出してしまったのか?