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 映画監督の篠田正浩さんが亡くなられました。伯母にあたる美術家の篠田桃紅さん(1913-2022、享年107)には及ばないにせよ94歳は大往生といえば大往生です。

 しかし、奥様で、「極道の妻たち」で知られる女優の岩下志麻さんは「悲しみと喪失で胸がいっぱい」とコメントを出しておられる。

 当然でしょう。

 私も、限られたご縁でしたが、篠田さんに大変心のこもったご指導をいただいたことがあります。

 後ほど記しますが、かつて真宗大谷派名古屋別院で「雅楽法要」を創ったノンフィクション「笑う親鸞」を高く評価してくださり、「自分はもう何もできないけど・・・」とおっしゃいながら、様々なアドバイスもいただきました。

 篠田さんの訃報は、彼一人というより、20世紀の中後半に日本で花開いた「映画」というジャンルそのものの曲がり角を、曲がり切ったような印象が私には強いのです。

気骨ある作家の真剣勝負

 例えば、篠田監督が33歳の時の大ヒット作、異色のヤクザ映画「乾いた花」は、形の上では松竹映画ですが、制作形態は独立プロダクションの形式でした。

 現実の制作は以下に記す「文芸プロダクションにんじんくらぶ」が担当しました。

 出来上がった映画は、バクチ場のリアルな描写や殺人による幕切れなど、公序良俗を範とする松竹の作風とはおよそ相いれない代物で、8か月ほどオクラ入りになった経緯があります。

「にんじんクラブ」は戦前「改造社」で思想弾圧を受け、拷問なども経験した若槻繁氏が「俳優のための映画の企画をする(自由に映画を創る)」ために創設したものでした。

 改造社は創設当初、英国の哲学者・論理学者であるバートランド・ラッセルや、アルベルト・アインシュタインを日本に招く自然科学に根拠を持って過去の悪習を打破し、社会「改造」をする気概で設立されました。

 若槻氏は終生、あの醜い戦争の時代から人間は何をしてきたのか、何をしてしまったのか、それを暴き続ける闘志に燃えていたといいます。

 顧問として映画5社の幹部である高村潔(松竹専務)、マキノ光雄(東映専務)、松山英夫(大映常務)、森岩雄(東宝専務)、服部知祥(新東宝社長)、また石坂洋次郎、井上靖、大佛次郎、川端康成、高見順、谷崎潤一郎、壺井栄、丹羽文雄、平林たい子、武者小路実篤といった一線の作家が名を連ねた。すごい人材のラインナップです。

 昨今の、タイアップがどうした、営業成績がこうしたというような制作状況とは全く異なる創造的な環境が、そこにはあった。

「渇いた花」(1958)は、石原慎太郎(1932-2022)がまだ作家だった頃、現代やくざの賭博の日常と歪んだロマンスを描いた短編小説でした。

 米ソ冷戦の宙づり状態のなかで高度成長が盲目的に進んでいた1960年代初頭、若槻氏は、この小説に見られるニヒリズムに時代の空気を強く感じ、映画化にあたって石原と同世代、新感覚を持つ若手のホープとして、篠田さんに白羽の矢が立った。

 石原慎太郎も篠田さんも1930年代初頭に生まれ、ローティーンとして1945年8月15日と墨塗教科書を体験した「アプレゲール(戦後)の反逆児」の世代にあたります。

 戦後の新しい文化の担い手としての期待をもって監督に選ばれ、松竹の専属監督だった篠田さんが、独立プロの映画作りを知ることになるのです。

 特に篠田さんは、そこから遡ること約10年、1953年に開始された日本のテレビ放送に対する、映画人としての矜持がありました。

 ちなみに、子供の頃、私はテレビと映画と何が違うのかさっぱり分かりませんでした。

 大学に入り、教養学部時代、映画評論家の蓮実重彦助教授(当時)のゼミに出て、初めて違いが理解できるようになった。

 蓮実さんによれば、テレビは最初から「お茶の間に入り込んだ広告塔」で、企業公告費で宣伝を垂れ流す「チンドン屋」(発言のまま)、新手のネオンサインが本質だというのですね。

 高度成長期の商売そのものと映る俗悪下劣な媒体を、気骨ある映画人は遠ざけていた。

 蓮実さんは自宅にテレビを置かないので有名でした。

 のちに彼は東京大学総長として私を招聘してくれ、人事でも大いにお世話になりました。

 その蓮実さんより半世代年長の篠田さんたちにとっては、新たな時代の文化を担う映画人として、広告優先のテレビとは違う、独立不羈の気概を見せるミッションがあった。

 そのような「アプレゲールの反逆児」第2陣として映画音楽で活躍したのが作曲を独学した「作曲家・武満徹」だったのです。