ミュジック・コンクレート

現実と非現実、音楽と映像の相互嵌入

 改めて資料を見てみると、「この作品では、音楽の使用箇所が極めて少ない」などと、情けないことが書かれているのを目にしました。

 そういう見識の「映画人」や「プロデューサー」しか、もういなくなってしまったのなら、文化としての日本の映画は終焉も近いと思います。

 全部「テレビ化」して終わるでしょう。広告のためのタイアップという浅い商売でおしまい。

 この映画には、「音楽」として「武満徹」と並んで「高橋悠治」のクレジットがあります。

 作曲家・ピアニストの高橋悠治さん(1938-) は私には師にあたる人ですが、この映画の当時は25~26歳。

 反ナチパルチザンとして顔面の半分を爆弾で吹っ飛ばされ生還したギリシャの建築家でコンピューターを用いた「確率音楽」の創始者として知られる作曲家イアニス・クセナキスの協力者として、委嘱した至難なピアノ曲「ヘルマ」の初演など、ピアニストとしての華々しい演奏活動が知られていました。

 しかし、並行して20代前半の高橋悠治さんは電子機器やコンピューターを用いる新たな創作にチャレンジしていた。

 その最前衛の極北の音楽が、「乾いた花」の全面に流れています。経緯を知らない現在の業界関係者たちは、それを理解できないのでしょう。

 1998年、クセナキスが京都賞を受賞した時、友人のNHK、渡辺考ディレクターに持ち込んで制作したETVスペシャルで回してもらった「ヘルマ」の動画が出ていましたのでリンクしておきます。

 これが音楽とは思えない、という平和な聴衆が大半を占める世界になってしまったのだと思います。

 さて、映画には「高橋悠治」のクレジットが堂々と乗っていますが、いまだったら、30歳過ぎの若手(武満徹のことです)が映画で仕事をもらい、25、26歳の後輩(高橋悠治さんです)に手伝ってもらったとして、きちんとクレジットが出るでしょうか?

 坂本龍一なんかは終生一切出しませんでした。

 それが当たり前で、会社もクリエーターも、若手を食いつぶすことに終始しているのではないか?

 この当時はそんなことはなかった。

 当時の映画人、音楽人、創り手の間には、作家として世界にモノを作り出し、それで世界自体を問う気概があった。

 低見識な業界人に耳がついていないのと無関係に、武満は篠田さんに、現場で出ている音を徹底して同時録音してくれ、と頼みます。

 具体音を録音して編集する形で作成される音楽は「ミュジック・コンクレート」として1950年代に確立され、様々な取り組みが為されていました。

 例えば、ヤクザが仕切る戦後の賭場では、客が花札を繰る音がせわしなく響くようです。

 カチカチカチカチカチ・・・その音をプレイバックで篠田さんと武満は一緒に聴くわけです。

 そしてそのなかに、一種の音楽性をもった「確率的なリズム」、パルチザンとしてギリシャ戦争を戦ったクセナキスが聴いた、英国兵の軍靴がアクロポリスの石段を踏む雑踏の音に通じる、無秩序の中に生まれる不思議な同期構造(まじめに言うと「非線形引き込み」というもので、私自身の作曲・演奏の本領に直結する内容ですが)が聴こえてくる。

 それを耳ざとく聴き出した武満は、篠田さんに依頼して、ここに「音楽」を挿入することを提案します。

 ただし、楽器を使っても使わなくても「現実の具体音」を使って。

 具体的には、タップダンスの「中野ブラザーズ」を松竹の撮影所内、コンクリートの広い床面に録音スタッフを入れて、タップの音を録るんですね。

 また「映画音楽」としては、コントラバスの胴体をひっぱたいたりする音を録音する。

 録音の棒を振っていた芥川也寸志さんなんかは、若い武満の奇才ぶりに大いにアテられるわけです。

 それを「花札」の現場同録(同時録音)のサウンドトラックと、タップダンスと一緒に、当時できたばかりのNHK電子音楽スタジオに持ち込んで、様々な電子的変調を加える。

 武満という人は耳は良かったけれど機材の取り回しなどは微妙でしたから、大半が高橋悠治さんの手でシステムを動かしたのではないか、今度、悠治さんに聞いてみようと思います。

 さて、高橋悠治25歳、武満徹33歳を筆頭に、複数の芸術音楽人が長い時間と機材を投入して加えた音楽・音響の操作を経て出てきたサウンドトラックを映像と合わせてみると、映画監督が一人で何か言うものとは、違う出来上がりになっているわけですね。

 篠田さんは単なる「映画監督」という持ち分を超えており、武満もまた単なる「発注される音楽を提供する業者」なんてものではない、映画と正面から向き合う一人の表現者として全力投球していたと思います。

 ちなみに、率直に書きますが私の作曲の師、松村禎三は映画音楽を「自作の小手試しができる格好の機会」と捉えていた面があり、全く不届き至極であったと思います。

 武満徹の映画への愛はホンモノでした。