吉田城 撮影/西股 総生(以下同)
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は愛知県豊橋市の吉田城を紹介します。
松平氏の重要拠点
豊橋の駅は面白い構造になっていて、1・2番線がJRの飯田線で3番線が名鉄のホーム、4〜8番線が東海道線になっていて、他に新幹線のホームがあり、少し離れた場所にも渥美半島方面へ向かう豊橋鉄道の駅舎がある。といっても、筆者は別にテツ語りをしたかったわけではなく、豊橋という場所がいかに交通の要衝であるかをいいたかったのだ。
そんな要衝の地にあるのが吉田城だ。この地は、江戸時代には城下町であると同時に東海道の吉田宿としても栄え、近代になって街の名が豊橋と変わっても、城は引きつづき吉田城と呼ばれ続けている。これも、ちょっと面白い。
本丸背後の枡形虎口。ここから豊川の川岸に下るようになっている
吉田城は戦国時代に築かれて松平氏の重要拠点となり、家康の時代には重臣の酒井忠次が置かれていた。天正18年(1590)に家康が関東に移ると、替わって池田輝政が15万石で入る。後に家康の娘婿となって姫路城を築く輝政であるが、このときはまだ豊臣直属の大名だ。
この池田輝政によって、吉田城は現在見るような近世城郭として整えられることになった。城は、水量ゆたかな豊川の曲流部に面して築かれている。本丸に立って豊川の流れを眺めると、平城ながらなかなかの要害であることが実感される。
鉄櫓の最上階から北を見る。城が豊川の曲流部に占地していることがよくわかる
現在の国道1号線、つまりかつての東海道は城のすぐ西で豊川を渡り、城の南を通って東へと抜けてゆく。ここから北に向かえば奥三河や信州伊那、南西に下れば渥美半島、なるほど交通の要衝である。だから、関ヶ原合戦の後に池田輝政が姫路に転じてからは、松平・水野・小笠原・牧野・久世と3万〜8万石の譜代諸家が、入れ替わり立ち替わり城主を務めている。
本丸北面の石垣。画面手前・中ほど・奥と積み方が異なっており、江戸時代に積み直しが繰り返されたことがわかる
そんな吉田城ではあるのだが、天守がない上に現存建物もないので印象は地味だ。現在、本丸には石垣が残っていて、北西隅には鉄(くろがね)櫓が建っているものの、これはコンクリでそれらしく復興された櫓で、史実に従った復元ではない。ただし、鉄櫓が載っている石垣は、かつての天守台ともいわれ、池田時代に築かれた貴重な石垣だ。チャートを用いた素朴な野面積ではあるが、豊川に面した高さはなかなかのもので一見の価値がある。
鉄櫓直下の池田期石垣。算木積の技法が未完成で岡崎城の天守台とよく似ている
面白いことに、この城は本丸以外は土塁で築かれている。池田輝政15万石の居城にしては少々貧相な気もするが、案外天正期の豊臣系大名としては現実的な築城方針だったのかもしれない。
二ノ丸東面に残る土塁。画面左手が本丸方向で、左側の道は堀跡である
その代わり、この城は広大な惣構を有している。残念ながら、近代以降の都市化によって惣構の大半は消滅してしまったけれど、城の南を東西に通る国道1号線の1本南に併走する道が、おおむね惣構のラインで、そのすぐ南側の道がかつての東海道だ。また、惣構の東北側の土塁が、城地東方の刑務所の所に残っているが、なかなか大きな土塁である。
城地東方に残る惣構の土塁。なかなか大きな土塁で、現在は刑務所の警備に役立っている
吉田城の惣構については、江戸時代に築かれたと見る説もあるようだが、輝政は東海道筋の押さえ役として朝鮮出兵を免じられているから、豊臣政権の戦略によって設けられたと考えた方がよいように思う。江戸時代に入ると、この方面には徳川軍の集結点として名古屋城があるわけだから、吉田城にわざわざ広大な惣構を設ける必要は薄いだろう。
とまあ、観光名所としてはお世辞にもパッとしない吉田城ではあるけれど、城として歩けば見所は何かとあって、城好きなら決して退屈はしないと思う、筆者は、丸半日たっぷり楽しめました。
城をひとわたり歩いて、もう一度本丸にご挨拶に戻ったら陽がすっかり西に傾いていた








