岡崎城 撮影/西股 総生(以下同)
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は愛知県岡崎市にある、岡崎城を紹介します。
家康ゆかりの城というイメージが強いが…
愛知県を代表する名城といったら、それはもう名古屋城にきわまるが、愛知県下には名古屋城をしのぐ巨大な城があるのをご存じだろうか? といっても、天守や石垣の規模ではなく、城域の広さという意味なのだが、岡崎城がそれである。
三河の山間部にあった松平氏は、家康の祖父である清康の時に岡崎に進出し、以来この地を本拠としてきた。今川の人質を卒業した家康も、この城で悩み多い青年時代を過ごしている。家康が元亀元年(1570)に居城を浜松(引馬)に移すと、嫡男の信康が岡崎城主となり、信康が自刃したのちは石川数正が城代を務めた。
写真1:岡崎城内に立つ徳川家康像
その数正も豊臣秀吉に引き抜かれて出奔してしまったわけだから、岡崎の城には家康の複雑な思いが詰まっていたことだろう。やがて天正18年(1590)、家康を関東に移した秀吉は、三河・遠江・駿河の旧徳川領に豊臣直系の武将たちを封じ、岡崎には田中吉政が5万石で入る(のち10万石)。
10年後、関ヶ原合戦に勝利して天下人となった家康は、三遠駿の豊臣系大名を「大儀であった」とばかりに大幅加増して、西国各地に追い出した。田中吉政も32万石の「栄転」で、筑後柳川に移っている。
写真2:岡崎城中心部に残る石垣。写真左側が本丸で、石垣は江戸時代のもの
代わって三遠駿の諸城に入ったのは、もちろん徳川家臣たちである。家康としては旧領を取り返した感覚だったのだろう。岡崎城には本多康重が5万石で入り、以後は水野・松平・本多と譜代各家が交替で封じられて、幕府要職を輩出する城となった。
そんな歴史を持つ岡崎城は、どうしたって徳川の城、家康ゆかりの城というイメージが強い。実際、城内には家康と徳川家臣たちを顕彰する施設やモニュメントが林立していて、天守(コンクリ天守だが)の写真を撮るのに苦労するほどだ。ほどなのだけれど、現在見る城の基本形は田中吉政が整えたものなので、天守台をはじめとして随所に田中時代の石垣が残っている。
写真3:天守台には田中期の石垣が残る。写真2の石垣にくらべて石の加工度が低く、サイズも不揃いで算木積も未発達である様子が見てとれる
その意味において、近世城郭としての岡崎城は実は豊臣系の城……といいそうになるのだが、歩いていると何か、変だ。縄張りが全体に豊臣っぽくないのである。中心部に狭い曲輪が密集していて、しかも曲線を基調としたプランになっている。土の城に、強引に豊臣の石垣を被せたみたいに見えるのだ。どうも岡崎城の中心部は、元亀・天正年間頃の徳川の縄張りを色濃く残しているようである。
写真4:持仏堂曲輪の石垣。崩落が進んでいるのは曲線プランに強引に石を積んだためかも
写真5:菅生曲輪に復興された隅櫓。写真右手の堀底道を折れた先に虎口があった
石垣も、江戸時代に積み直した箇所は、よく見ると角の所が江戸切りになっていて「徳川の城だぞー!」とアピールしているみたいだ。天守も古写真で見ると、譜代各家が入った東海地方の諸城と共通性のあるデザインで、やはり徳川アピールを感じてしまう。
そんな中で謎なのが、広大な惣構だ。残念ながら、惣構の土塁・堀はほとんど市街地となってしまっているが、かつては東西1.5キロ、南北1キロに及んでおり、その広さは名古屋城の三ノ丸をはるかにしのぐ。
写真6:惣構東側の塁壕跡は緑道となっており、徳川諸将の像が立っている
愛知県下では、岡崎城と吉田城が同じように広大な惣構を有しているのだが、なぜこの2城なのか、なせそんなに広いのかは、諸説分かれて判然としない。ただ、岡崎城の場合は惣構を「田中堀」と呼んでいたわけだし、戦略的な視点から見ても豊臣期の方がよさそうな気がするのだが ……。
まあ、このあたりは簡単に結論が出る問題ではないから……など考えながら歩いていたら、お腹が空いた。岡崎といえば八丁味噌の本場、味噌カツでも食べるとするか。
写真7:岡崎城復興天守。全体形は古写真の天守に似せているが、カラーリングや高欄・廻縁などが違っている。正直、古写真の方がカッコよかった








