(歴史ライター:西股 総生)
新しい国家権力として誕生した鎌倉幕府
岸田政権が打ち出した「定額減税」、皆さんは恩恵を実感していますか?
かくいう筆者は、ほとんど実感できていない。サラリーマンと違って、筆者のようなフリーランスの場合、来年の確定申告を待たないと所得税が減税されないからで、正直不公平感しかない。こんな政権とっとと倒れてくれ、と願うばかりだ。
というわけで、では国家権力はいったいどんな時に倒れて、どういう場合に存続するのか、この問題を日本史を概観することから探ってみよう、というのが本稿の趣旨である。
まず、日本で最初の統一権力となった古代大和政権は→律令国家→王朝国家と変形しながらも、「朝廷」として存続し続けた。これに対抗すべき新しい国家権力として誕生したのが、源頼朝が1180年に樹立した鎌倉幕府だった。しかし、頼朝は朝廷を打倒はしなかった。
なぜなら、もともと頼朝たちが東国独立を目ざす叛乱軍として出発したからだ。のちに彼らは、東国独立路線から自治政府路線へと軌道修正することで、政治権力を確立していったものの、最初から朝廷を打倒する意志も必要性もなかったわけだ。
創業者である源頼朝の死後、鎌倉幕府の実権は執権の北条氏が握ることとなった。いわゆる執権政治である。鎌倉幕府は日本で初めての武家政権であるゆえに、権力をどう掌握し行使するか、という試行錯誤が避けられなかったのだ。
こうして、将軍を名目上の主君に戴きながら北条氏が実権を握る、という図式は鎌倉時代を通じて存続したが、権力の実態は変化していった。すなわち、幕府の公的役職である執権と、北条という家の家督である得宗(とくそう)の立場が次第に分離し、得宗が実権を握って執権はお飾りになっていったのだ(得宗専制という)。
さらに、北条家の家人である御内人(みうちびと)の中の有力者が、実質的に政治を動かすようになり、得宗もまたお飾り化していった。北条家は権力を握ったゆえにに肥大化し、肥大化した北条家の内部で権力闘争が繰り返されるようになったのである。
こうして鎌倉幕府の内部では、権力が制度上あるべき所になく、公的立場にない誰かが実権を握っている、という権力の空洞化が進んだ。空洞化した権力は恣意的な行使を生むから、腐敗が進む。
鎌倉幕府は、1274/81年の文永・弘安の役では、元軍の侵攻という未曾有に危機に敢然と対処しえたものの、1331年に始まる後醍醐天皇・楠木正成らの挙兵に際しては、後手を踏むことになった。その理由も、権力の空洞化に求めることができよう。
文永・弘安の役に際して、幕府は若い北条時宗を執権・得宗に立てることで、指揮命令系統を明確に一元化して危機を乗り切った。しかし、50年を経て権力の空洞化が進んだ幕府では、もはや責任の所在があいまいであり、危機に対処すべきダイナミズムを失っていたのである。
とはいえ、幕府の内部に得宗に対抗できる勢力はいなかった。その意味では、得宗は専制的な立場にありつづけたことになる。
腐敗し空洞化してもなお専制的だった北条家の権力を打倒する動きは、幕府の外側から突然やってきた。1333年、後醍醐らの動きに同調して上野(こうづけ)で挙兵した新田義貞が、鎌倉に攻め入って幕府を叩きつぶしたのである。(つづく)
[参考図書] 源頼朝はなぜ朝廷を倒さなかったのか? 鎌倉幕府の成立と権力闘争の実態について知りたい方は拙著 『鎌倉草創-東国武士たちの革命戦争』(ワンパブリッシング)をご一読ください。