鎌倉源氏山に立つ頼朝像 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

一掃された源家嫡流の血筋

 源実朝が横死したのち、鎌倉幕府は新しい鎌倉殿として、頼朝の遠縁にあたる三寅を迎えます。わずか2才で鎌倉に下った三寅は、のちに元服して頼経と名乗りますが、彼の実家は摂関家の一つである九条家です。

 公暁と阿野時元が相次いで討たれたことにより、源家嫡流の血筋が途絶えてしまったからです。将軍殺害の張本人である公暁は当然として、時元の方はどうでしょう?

『吾妻鏡』によれば、時元は「駿河国の山奥に武装拠点を構えて挙兵を企て、朝廷から宣旨をもらおうとしていた」となっていますが、本当のところはよくわかりません。そもそも鎌倉と京との間で、次期鎌倉殿として誰を下向させようか、という交渉を進めている最中に、時元を将軍に任ずる宣旨を出す、というのも考えにくい話です。

秦野市にある実朝首塚伝承地 撮影/西股 総生

 真相はどうあれ、源家嫡流の血筋は一掃されてしまいました。まるで、鎌倉幕府という〝組織〟そのものが、邪魔ものとして排除したかのようです。

 その代わりとして担ぎ出されたのが、武家ではなく摂関家の出である三寅(九条頼経)なのです。北条義時が政治的な実権を握っていた鎌倉で、なぜ、そうまでして鎌倉殿が必要とされたのでしょうか?

藤原(九条)頼経像

 まず、実務的な話をすると、幕府が出す行政文書はすべて「鎌倉殿の仰せによって以上の通り命ずる」という形を取っています。実際に文書を書くのは文官たちで、執権の義時が責任者としてサインをします。とはいえ、形式上は執権や文官たちが鎌倉殿の意志を仰いで命ずることになっているわけです。

 現代の会社にたとえるなら、社長がよくわかっていない案件でも、社長が入院中でも、書類上は「代表取締役社長 誰それ」の名前になっているようなものです。鎌倉幕府の場合、鎌倉殿が存在しないのに「鎌倉殿の仰せにより」と文書を出したのでは、受け取った側が納得できません。文書としての証拠能力が疑わしいからです。

 また、「御家人」とは「鎌倉殿に仕える家人」の意味です。武士たちは鎌倉殿と主従関係を結ぶことによって御家人となりますが、彼らの主従関係は、一対一の個人契約です。

 幕府がどれだけ大きくなって組織が整おうと、御家人の数がどれだけ増えようと、主従関係の原理は変わりません。一対一の個人契約が無数に積み上がってゆくだけです。鎌倉殿が不在ということは、この御家人の個人契約が宙ぶらりん状態ということなのです。

 もう一つ、相続の問題があります。頼朝が敵を倒して獲得してきた荘園領主や知行国主といった利権は、鎌倉殿が相続すべき資産です。ただし、この資産を相続するには三位以上の家格が必要、というのがこの時代のルールでした。鎌倉殿の不在は、資産を相続する有資格者がいない状態なのです。

 ゆえに、成人すれば確実に三位以上の位を得ることのできる、高い身分の人を鎌倉殿として迎える必要がありました。皇族であれば申し分ありませんが、無理なら摂関家から、というわけです。

 

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