
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
9代将軍となる徳川家重の小姓に
江戸幕府の老中を務めた田沼意次は、賄賂政治の権化のように思われ、不評でした。近年ではそうした評価の見直しも進んでいますが、それでは意次とはどのような政治家・指導者だったのでしょうか。享保4年(1719)、意次は江戸で生まれます。幼名は竜助。意次の父は田沼意行と言いました。
意行は、後の8代将軍・徳川吉宗がまだ越前丹生の領主だった頃から、中小姓を務めております。その後、吉宗は丹生郡の領主から紀州藩主となり、更には徳川将軍にまで出世します。意行もそれに従い、丹生から紀州へ、紀州から江戸へと転々とするのでした。
主君が出世したのですから、その家臣である意行にも恩恵がありました。幕府の旗本となり、最終的には御小納戸の頭取(将軍の身辺の雑務を担当した小納戸の長)にまで出世するのです(1734年)。しかし、同年の年末に死去します。
父・意行が吉宗に仕えていたこともあり、その子・意次は13歳の時に将軍・吉宗にお目見えを許されたといいます。そして、15歳の頃に、吉宗の子で後に9代将軍となる徳川家重の小姓となるのです。意次は家重に可愛がられたとの話もあります。意次は美男子であり、物腰も穏やかであったことから、男色によって出世したのではないかとの悪評もあったほどです。
父・意行の死により、意次は家督を継承(1735年)。将軍の世子である家重に仕えていましたが、家重が将軍に就任(1745年)すると、意次は西の丸出仕から本丸へ出仕することになるのです。そこから、意次の快進撃というか、怒涛の出世が始まるとされます。御小姓組番頭格、御取次見習、御小姓組番頭と進み、禄高も2千石となります。