湯島聖堂 大成殿 写真/kriver/イメージマート

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

30歳という若さで「老中首座」に

 天明7年(1787)6月、白河藩主であった松平定信は、徳川幕府の老中となります。しかも単なる老中ではなく「老中首座」(老中の最上位)に任命されたのです。30歳という若さでした。幕府の要職を歴任してきた訳ではない定信は、なぜ異例の出世を遂げることができたのでしょう。その要因の1つは、定信が、御三家や御三卿の1つ一橋治済の後援を得ていたことにありました。

徳川治済像

 治済は、11代将軍・徳川家斉の実父であり、影響力がありましたが、それでもすぐに定信の老中就任が実現した訳でもありません。当時の幕閣は、田沼意次派の人々で占められており、御三家や御三卿が定信を老中に送り込もうとしていることに反発したからです。

 将軍家斉自身は、御三家らの意向を受けて、定信を老中として登用したい考えだったようですが、老中・水野忠友が反対したために容易に実現しませんでした。

 また、定信は将軍の縁者(定信の妹は、亡き10代将軍・家治の養女となっていた)であり、将軍の縁者を幕政に関与させてはならないとする論理も「田沼派」は展開してきました。そのようなこともあり、定信の老中就任は容易に実現しなかったのですが、天明7年5月、田沼派の実力者が役職を罷免されるという事態となり、状況は変化します。

 田沼派の人々が罷免された背景には、5月に江戸において、打ちこわしが発生したからだと考えられています。将軍のお膝元・江戸における打ちこわしという前代未聞の出来事。その責任を問われて、一部の田沼派が失脚したのです。そして、老中首座・松平定信が誕生するのです。