
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
定信の才能を恐れていた意次
後に徳川幕府の老中となる松平定信(1759~1829)は、17歳の頃に、陸奥白河藩主・松平定邦の養子となることが決まります。これは、10代将軍・徳川家治の命令でした。定信は、御三卿の1つ田安家の出。田安家は、兄の治察が継承していましたが、安永3年(1774)、病死してしまいます。治察には、妻子はいませんでしたので、養子にいった定信に田安家に復帰してはという声もありました。定信も田安家の行く末を案じつつ養子にいったので、田安家に戻ることを望んでいたようですが、実現しませんでした。
一説によると、その裏には、1人の人物がいたとされます。幕府老中の田沼意次です。余談となりますが、意次と言えば、賄賂が横行した「田沼時代」を創った政治家として一昔前まで語られていましたが、近年、見直しが進んでいます。さて、定信を白河松平家に養子に出したのも、定信が田安家に戻ることを阻んだのも、意次の仕業だったと言われています(『楽翁公伝』)。
意次はなぜそのようなことをしたのか? 意次は定信の才能を恐れており、御三卿の1つである田安家出身の定信が将軍職に就任することを阻止するためだったとされます。