由比ヶ浜 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

官位の昇進に執心していた実朝

 鎌倉幕府の第三代将軍である実朝には、子がありませんでした。一方で実朝は、官位の昇進にたいへん執心していたので、あるとき大江広元が「あまりに急な昇進はよくない」と諫めました。ところが実朝は「源氏将軍は自分の代で絶えるのだから、せめて高い官位に登って名誉としたい」と答えた、という話が『吾妻鏡』に出てきます。

源実朝

 この時代は、身分不相応の高位につくと災いがふりかかる、と信じられていました。一方で、人の名前は、最終的についた最も高い官職によって記憶されます。たとえば頼朝は右近衛大将に任じられたので、死後は「右大将家」と呼ばれました。実朝も最終的には右大臣に任じられたので、こんにちのわれわれも「右大臣実朝」と呼んでいます。

大江広元

 広元と実朝とのやりとりの背景には、こんな事情がありました。とはいえ、実朝がついに子を為さなかった、という史実に照らして考えると、なかなか意味深なやり取りにも思えます(『吾妻鏡』の作文である可能性も否定できませんが)。

 そこで、実朝が子を為さなかったのは、本人の性的能力または性的嗜好によるものではないか、と考える歴史学者も少なくありません。今回のドラマでは、泰時に対する秘めた想いという、まさかのBL的展開が話題になりましたが、まったく荒唐無稽な創作ではないのです。

 ただ、もう少し別な考え方もできるように思います。

 というのも、政子は当初、足利氏の娘を実朝にめあわせようとしました。ところが、実朝は京の貴族の娘を望んだため、坊門姫を迎えることとなった、という事情があるのです。これは、有力武士と婚姻関係を結んだ場合、政争に発展することを実朝が怖れたため、と考えてよいでしょう。この坊門姫が鎌倉に来たとき、実朝はまだ10代の半ばですから、すぐに子ができないのは致し方ありません。

 一方、和田合戦が起きたのは、坊門姫を迎えてから10年ほどたってからですから、実朝も20代になっています。ただ、合戦が起きる数年前から義時と和田義盛との確執は生じていましたから、幕府内での権力闘争が深刻化する中で、実朝は子作り適齢期を迎えていたことになります。

和田義盛

 とくに、和田合戦ののち実朝は、夢枕に立つ義盛の亡霊に悩まされることになりました。自分を慕い忠義を尽くしてくれた老臣を守ってやれなかったことに、自責の念を募らせたのでしょう。この頃から、実朝は酒に溺れることが多くなり、二日酔いで政務に支障を来すこともたびたびだったようです。

 まだ少年のうちに鎌倉殿に立てられた実朝も、20代ともなれば分別がついてきます。権力の仕組みや御家人たちの様子、自分の置かれた立場なども見えてきます。父(頼朝)や姉(大姫)、兄(頼家)の最期について、知ってしまう機会もあったかもしれません。

 そうした中で、実朝は怖れたのではないでしょうか。自分の子は、男子であれ女子であれ、決して幸せにはなれない。いや、むしろ非業の死を遂げるのではないか。だとしたら、都から後鳥羽の皇子なりを鎌倉殿に迎えて、自分は宋の国にでも渡ってしまいたい・・・こんなふうに、考えたとしても不思議ではありません。

 実朝は子作りを放棄したのではないか … そう筆者は推測しています。

※ 発売中の『歴史群像』12月号に「鎌倉炎上! 和田合戦」を掲載。和田合戦について詳しく知りたい方、史実とドラマの違いに興味のある方は、ぜひご一読を!