(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
戦国時代の城としか思えないものも・・・
今回は、鎌倉武士と城について考えてみます。
全国各地にある城を訪れて、そこに立っている説明板を読むと、「この地に最初に城を築いたのは、鎌倉時代の誰それと伝えられている」と書かれていることが、よくあります。いえ、看板だけではなく、出版物なんかにも同じことが書いてあります。
東京近郊の城跡を例にとってみると、神奈川県藤沢市の大庭城は大庭景親が、同じく平塚市の岡崎城は岡崎義実が築いたことになっています。あるいは、埼玉県嵐山町の菅谷(すがや)城は畠山重忠が築いたとされていて、城跡には重忠の像も建っています。
ところが、これらの城跡を実際に踏査してみると、規模や構造からして戦国時代の城としか思えないのです。大庭城や岡崎城は、戦国時代に使われた記録もあります。
いやいや、もともとは大庭景親や岡崎義実や畠山重忠の築いた城なり館なりがあって、それが改修されたり拡張されたりしながら、大きな城になっていったのだろう、と思う人があるかもしれません。実際、菅谷城については、そのように説明されてきました。
でも、よくよく調べてみると、大庭景親やら岡崎義実やら畠山重忠やらが築いたという根拠が、そもそもあやふやなのです。最大の根拠となっているのは、江戸時代に編まれた地誌のたぐいなのですが、地誌の記載をよく読むと「土地の人は誰々が築いたと言っているが、どんなもんだろう」みたいな書き方をしている例が多いのです。
つまり、地誌の編纂者たちも、話半分に聞いておいたが参考までに載せておこう、くらいに書きとめているのです。それが、いつの間にか「土地で昔から伝えられてきた話」にすりかわり、あるいは江戸時代の記録に出てくる、という話として認識されるようになっているだけなのです。
菅谷城の場合、これまで何度か発掘調査が行われましたが、鎌倉時代まで遡る遺構や遺物は見つかっていません。もし、重忠が住んでいたのだとしたら、周囲には郎党や農民たちの家もあったはず。部分的な調査でも、何かしら痕跡がひっかかりそうなものです。
筆者は長年、中世城郭の研究を専門的に行ってきました。その立場から、はっきり言いますね。
南北朝時代以前に遡る築城伝承は99パーセント、ガセです。信頼できる根拠がないからです。
「このあたりは大庭という地名だから、大庭景親もこのあたりに住んでいたのだろう」
「そういえば、あそこの丘の上に、古そうな城跡があるよね」
「じゃあ、そこが景親の本拠なんだろう」
くらいなノリで後世に作られた話、と考えて差し支えありません。
また、鎌倉武士の館と伝えられている場所も、たいがいはガセです。神奈川県の一之宮町には梶原景時館とされている場所があります。丹念に歩くと、畠の中に土塁と堀の跡がかすかに残っているのですが、室町時代の内乱で築かれた陣の跡と考えた方がよさそうです。
同じような伝承地は各地にありますが、発掘調査で確認された鎌倉時代の武士の屋敷遺跡とは、立地も形態もまるで違います。
「築城は鎌倉時代に遡る」「鎌倉武士の館」といった話は、歴史を楽しむための“軽いネタ”くらいに考えておいた方が、よいでしょう。
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