(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
参勤交代は武家政権の基本原理
江戸時代、諸国の大名は大勢の家臣たちを率いて、定期的に国元と江戸屋敷とを往復すえる義務を負っていました。いわゆる「参勤交代」です。
この参勤交代について、大名の財力を消耗させるための施策だという人がいますが、まったく的外れな邪推です。たしかに参勤交代は、各藩にとって大きな財政負担となりました。でも、ある施策が結果として財政負担になるのと、最初から財政負担を目的としていたのとでは、話がまったく別です。
「参勤交代は大名の財力を消耗させるため」という評価は、目的と結果を取り違えた言説でしかありません。なぜなら、参勤交代とは何かを目的とした施策などではなく、武家政権の基本原理みたいなものだからです。
その基本原理は鎌倉時代まで(本当はもっと前まで)遡ります。実は、現在進行中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、その様子がちゃんと描かれているのです。
源頼朝が鎌倉を本拠地に定めると、これに従った武士=御家人たちは鎌倉に各々屋敷を構えます。鎌倉殿に仕えるためです。
一方で、彼らは地方に所領を持っています。彼らは、鎌倉殿に仕える一方で、自分の所領も治めなくてはなりませんから、地元と鎌倉との二重生活になります。
もちろん、北条時政・義時のように政権の中枢部にいる者は、なかなか鎌倉を離れるわけにはゆかないので、一族の誰か(兄弟など)や郎党を地元に残して治めさせます。とはいえ、ほとんどの者は、折に触れて地元に様子を見に帰ります。
ドラマの前々回でも、実衣が全成に「(琵琶の稽古は)しばらくお休み。結城殿が下総に戻られたの」と言っていましたし、前回は全成をそそのかしたことを義時から追及された比企能員が「所領に帰っておったのだ」としらばっくれていました。
ズバリ、これが参勤交代の原型です。
御家人たちは、鎌倉にいる間は鎌倉殿の身辺警護や治安維持業務などに当たりますから、単身赴任というわけにはゆきません。一族郎党の一半は地元に残し、一半は鎌倉の屋敷に呼び寄せます。そして、地元に帰るときには、鎌倉屋敷には留守居の者を残し、他の郎党はゾロゾロ連れて帰り、また郎党たちを連れて鎌倉に出仕します。
また、御家人たちには本領の他に、戦いの恩賞としてもらった所領もありますから、一族郎党を各地に派遣しなくてはなりません。したがって、有力な御家人でも、一族郎党の大半は普段は地元や各地の所領に散っていて、鎌倉に呼び寄せている人数は、そう多くないということになります。
御家人同士の対立抗争や陰謀、暗殺などが次々と起こっても、鎌倉で挙兵するという動きになかなかならないのも、このためです。事を一気に決するためには相応の兵力が必要ですが、地元や各地の所領にいる一族郎党を、勝手に鎌倉に集めたりしたら、その時点で謀叛となってしまうからです。
このように、各地の武士たちが「奉公」のために、交替で政権所在地に赴くという行動は、さらに遡るなら、平安時代の「大番役」に行き着きます。参勤交代や大名行列は、武家政権の中に最初から組み込まれ、脈々と受け継がれたDNAのようなものだったのです。
鎌倉時代の御家人たちが、所領と鎌倉の屋敷とを行き来し、兵の多くは地方にいる、という状況を頭に入れておくと、『鎌倉殿の13人』の今後の展開も、いっそう楽しめるはずです!
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