京都御所 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

外戚として朝廷の実権を握ろうとしたのか

 今回は、大姫入内(じゅだい)問題について考えてみましょう。

 平氏についで奥州藤原氏を滅ぼし、正二位右近衛大将をへて征夷大将軍に任じられた頼朝。武家の棟梁としての立場を確立すると、今度は長女の大姫を後鳥羽天皇の后(きさき)に入れようと考えはじめます。頼朝は、どのような政治的意図をもっていたのでしょう?

「武者鑑名人相合南伝二 大姫君」

 天皇の外戚として朝廷の実権を握ろうとした、というのが古典的な解釈です。入内した大姫が皇子を生み、その子が皇位を継げば、頼朝は天皇の外祖父、つまりはおじいちゃんとなるわけです。

 このように閨閥を利用して天皇を操る手法は、藤原摂関家や平氏がさんざんやってきたことです。貴族社会における政治力学の基本、といってもよいでしょう。もともと貴族社会の一員に生まれた頼朝は、武士たちを束ねながらも、結局は貴族社会の価値観の中に生きていた、というわけです。

京都御所の清涼殿。平安・鎌倉時代には、摂関家などの貴族の私邸に御所が置かれることが多かった。現在見る御所の建物は江戸時代のもの。

 でも、この解釈に対しては重大な疑問があります。頼朝は、最初に上洛して右近衛大将・権大納言に任じられたとき、官職を返上して鎌倉に帰っています。自分は朝廷の中で出世を求めるつもりはないよ、という意思表示です。せっかくもらった征夷大将軍も、ほどなく返上しています。

 自分の権力の源泉は、武士たちによって推戴される鎌倉のボス=鎌倉殿という立場にある。右近衛大将や征夷大将軍といった肩書きは、ハク付けや現状の追認でしかない。

 そう考えていたからこそ、頼朝は内乱の間も鎌倉を動かず、京で栄達を求める道も選ばなかったのでしょう。だとしたら、天皇の外祖父として朝廷の実権を握ろうとした、という解釈は説得力がありません。

 もう一つ、有力な解釈があります。大姫と後鳥羽の間に生まれた皇子を、次世代の鎌倉殿に迎えようとした、という説です。僕は、こちらに説得力を感じます。

後鳥羽院像

 当時の頼朝は膨大な荘園・知行国などの利権を持っていました。平家方から没収した利権の多くが、頼朝のものとなっていたからです。

 これらの資産群を安定して保持するためには、荘園領主や知行国主となれる高い身分が必要ですが(前回=第22回https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70339]参照)、後鳥羽天皇の皇子であれば問題なく高い官位が与えられます。つまり、当時の土地制度や税制を踏まえて、鎌倉殿の地位と幕府の財政を安定させるためには、皇族を鎌倉殿とするのがベスト、という判断です。

鎌倉の永福寺(ようふくじ)跡。頼朝は内乱の戦没者を供養するために鎌倉に壮大な寺院を建立した

 大姫の生んだ皇子を迎えるまでは、頼家を中継ぎとすることなども、考えていたかもしれません。ただ、閨閥を利用して朝廷の実権を握りたい貴族は、たくさんいますから、大姫入内を計画するとなると、どうしても貴族社会の政治力学に巻き込まれます。

 頼朝としては、幕府安定のためのベストな策として大姫入内を考えたのでしょう。でも、田舎武士である御家人たちの多くは、朝廷の内情や国の制度・法体系のことなどよく知りません。幕府の組織を整えるために、京下りの文官たちを重用したことともあいまって、御家人たちの間に不満が生まれてゆきました。

「近頃の鎌倉殿は、京の方ばかり向いている」と。

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