源氏山公園にある源頼朝像 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

後の「守護・地頭制」のベースに

 今回は、鎌倉幕府による支配の根幹をなした、守護・地頭制度について考えてみます。

 1185年(文治元)鎌倉の頼朝は、逃亡した義経を探索するため、後白河法皇に迫って各国に「惣追捕使(そうついぶし)・地頭」を設置することを認めさせます。このときの「惣追捕使・地頭」が、実際にどのくらいの役割を果たしたのかについては、専門家の間でも議論があります。

 ただ、これが後の「守護・地頭制」のベースになったことは、まちがいありません。実際、現在の歴史の教科書では、「守護・地頭制」のベースができた1185年(文治元)をもって、鎌倉幕府成立の年としています。では、守護・地頭とは何でしょう?

 一般に地頭とは、貴族や寺社が支配する荘園や、国司の支配する公領の郡や郷ごとに鎌倉幕府が置いた役職で、現地の治安維持や支配にあたるものとされています。平家方から没収した荘園・公領に、頼朝が武士たちを派遣したのが原型です。そして、これらの地頭を国ごとに指揮する役職が、守護です。

 そこで、守護・地頭の設置は全国的な治安維持機構の創設、のように説明される場合があります。この理解はまちがってはいませんが、大事なポイントが抜け落ちています。

 もともと日本の古代国家は、全国の土地と人民は天皇のものという「公地公民制」の原理で成り立っていました。この「公地公民」は、奈良・平安時代を通じて次第に骨抜きにされ、有名無実化してゆきます。貴族や有力寺社といった支配階層が蓄財のために、法の抜け穴を探したり、自分たちに都合のいいように制度を改変していったからです。

 その結果、「地べた(土地そのもの)は誰のものか」という原理原則論を棚上げしたまま、土地の上にいろいろな権益が折り重なるように設定されるようになりました。この状況は、いまの中国の不動産利権によく似ています。

 土地制度上は、武士たちの所領も「ここからここまでの土地はオレのもの」とはなりません。いくら実力で現地を押さえていても、法的に認められているのは、荘園・公領からの年貢や税を、貴族や国司に収めるために取り立てる職務と、それに付随する行為です。

 ただ、そうした職務を遂行するには手間がかかりますから、一定のマージンを取ることがが認められます。こうした職務とマージンのセットを、「職(しき)」と呼びます。土地に対する武士たちの権利は、「荘官職(しょうかんしき)」「郡司職(ぐんじしき)」「郷司職(ごうじしき)」という形で認められているのです。

 なので、頼朝が武士たちの所領を安堵したり、新しく所領を与える場合、文書には「誰々を何々郷の郷司職として認める」とか、「誰々を何々荘の荘官職に任ずる」と表現されることになります。

 守護・地頭も、実際は「守護職(しゅごしき)」「地頭職(じとうしき)」です。おわかりでしょうか。頼朝が配下の武士たち=御家人たちに所領を与える権限、それが「守護・地頭制」の本当のキモなのです。

 謀反人の探索と討伐、そのための戦費の確保という名目で、言い換えるなら、戦時体制下における戒厳措置という形で、頼朝は御家人たちに所領を与える権限を獲得しました。多くの研究者が、1185年(文治元)を鎌倉幕府成立の重要な画期、とみなすゆえんです。

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