歌川芳虎「大日本六十余将 上総介広常」(部分)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

『吾妻鏡』に記されていない広常粛清事件

 佐藤浩市さん演じる上総介広常は、御家人たちの中でも抜群の存在感を放っていました。その広常が突如として粛清されるシーンは、鎌倉幕府の成立史に詳しくない方には、かなりショッキングだったのではないでしょうか。あるいは、かつて『新選組!』で佐藤浩市さんが芹沢鴨を演じたことを思い出した大河ファンも、少なくないかもしれません。

 実は、この広常粛清事件がなぜ、どのように起きたのかは、よくわかっていません。というのも、鎌倉幕府の正史として編まれ、鎌倉幕府研究の基礎史料となっている『吾妻鏡』に、この事件のことが書かれていないからです。

 いえ、別に広常粛清事件をなかったことにして、他の話をたんたんと記録しているわけではありません。この事件が起きた寿永2年(1183)の記事が、まるまる欠落しているのです。

 実は、『吾妻鏡(あづまかがみ)』には他にも何か所か、欠落があります。どうもそれらは、後の時代になんらかの事情で失われたのではなく、最初から書かれなかったようなのです。幕府の歴史として公式には書き残せないような「何か」が、鎌倉で起きていた、と考えるしかありません。

 残念ながら、寿永2年(1183)の鎌倉で起きていた事件を、正確に知ることはできません。今回『鎌倉殿の13人』で描かれた顛末は、いくつかの研究を参考にしながら、三谷幸喜さんがドラマとして練り上げたものです。この連載でも、前後の状況を整理しながら、事件の背景を掘り下げてみましょう。

 まず、粛清が起きる前年の11月には、例の亀の前事件(不倫発覚事件)の余波で、北条時政が伊豆に引っ込んでしまいます。このとき、義時が鎌倉に残ったことを頼朝がほめた、と『吾妻鏡』には記されています。「お前までいなくならなくて助かった」というわけで、頼朝が少なからず困っていたことがわかります。

北条時政らが暮らしたとされる北条氏邸跡(伊豆の国市) 写真/PIXTA

 次に、広常粛清の直前、鎌倉には「寿永2年10月宣旨」と呼ばれる宣旨がもたらされています。これは、ドラマの前回でも描かれていたように、東国における荘園・公領からの年貢・税の納入に頼朝が責任をもち、従わない者がいたら討伐せよ、と朝廷が命じた宣旨です。

 また、年が明けて元暦元年(1184)になると、範頼の率いる鎌倉軍が大挙して都に向かっています。時政のいない鎌倉で「何か」がもち上がり、広常の粛清をきっかけとして、頼朝は御家人たちをまとめ上げることに成功した、とみて間違いないでしょう。

 少しさかのぼって、思い出してみましょう。房総で、千葉常胤や上総介広常を仲間に加えて勢力を盛り返した頼朝軍は、関東(坂東)に新しい武士の世を創るんだ!と盛り上がりました。

源氏山公園の源頼朝像 写真/西股 総生

 富士川の合戦で平家軍を「撃退」したあと、彼らが京へ向かわず、関東平定を優先させたことで、この方向性は明確になりました。ゆえに、武士たちは頼朝を「鎌倉殿」に推戴したのです。このときの鎌倉は、「東国独立革命政府」のようなものでした。

 それに対して、朝廷側が出してきたのが、「寿永2年10月宣旨」だったのです。(つづく)

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