大倉幕府跡 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿の時代(11)組織としての鎌倉幕府(前編)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69429

武士の利権をめぐる訴えを扱う「問注所」

 もう一つの「問注所(もんちゅうじょ)」は、訴訟を扱う機関と説明されのが普通です。といっても、われわれのイメージする裁判所とは、だいぶ違います。「問注所」が扱うのは、武士たちの土地や利権をめぐる訴えです。

 これも、教科書では1184年(元暦元)設置となっていますが、「公文所」と同じように、業務そのものは頼朝が鎌倉入りした頃からありました。なぜなら、頼朝が武士たちと主従関係を結ぶということは、頼朝が武士たちの所領を保障し、手柄があれば新しい所領を与え、武士たちが土地や利権でモメたら、言い分を聞いて裁定してやる、ということだからです。

鎌倉市御成町にある問注所旧蹟碑

 このように見てくると、鎌倉幕府はもともとベンチャーみたいなものだったことがわかります。仲間と起業をするときに、いきなり総務部・経理部・営業部・・・なんて組織図を描いたりしませんよね。というか、最初にそんなことをやっていたら、起業に失敗します。まずは自分たちで営業に動いて、仕事が順調に回るようになってスタッフも増えてきたら、事務の担当とか、必要に応じて決めてゆくことになるでしょう。

 鎌倉幕府も同じ。頼朝が武士たちを従えたことによって、武士たちのシフトを調整したり、所領を与えたり、モメ事を調停したり、といった業務が自然に発生します。そうした業務をこなすために、専属の担当者を置くようになり、だんだんスタッフが増えて、新庁舎が増築される。そんな風にして、幕府の骨組みができていったのです。

 ところで、「公文所」は1191年(建久2)に、「政所(まんどころ)」と改称されます。そこで教科書では、1191年(建久2)に「政所」が設置されたという書き方をしている場合もありますが、業務の内容は「公文所」と変わりありません。

 では、なぜ名前が変わるかというと、頼朝が従二位右近衛大将(うこのえたいしょう)に任じられたからなのですが、ここは少々説明を要します。

 平安時代の制度では、三位以上の身分の人が、荘園を持つことのできるトップセレブでした。「政所」とは、そのトップセレブだけに許される資産管理団体なのです。「公文所」が「政所」になるのは、頼朝の個人事務所が法人格の資産管理団体に格上げされたようなものです。

「政所」初代別当になった大江広元

 そう。鎌倉幕府の原型は、頼朝の個人事務所みたいなものなのです。もともとが行き当たりばったりの叛乱で、全国支配なんか目ざしていなかったわけですから。その叛乱がうまく当たって、だんだん東国自治政府みたいになってゆき、さらに勢力を拡大していったのです。

 やがて、京周辺での業務が増えてくると、エージェントとして京都守護を置き、訴訟業務が増えてくると審理委員として評定衆を置き・・・というふうに、都度アップデートをくり返しました。やがて、全国各地に鎌倉殿の支配地が増えて、法人格の資産管理団体に格上げされたのです。

最初の上洛時に「京都守護」に任命された北条時政

 しかも、本当の権力のありかは、組織の形や名前のついた部局とは別です。実際はトップに鎌倉殿がいて、その周囲に信頼される側近や幹部がいて、彼らが綱引きをしながら意志決定が行われてゆくからです。つまり、鎌倉幕府の仕組みを一枚の組織図で表すことが、そもそも無理なのです。

 鎌倉幕府の成立をたどることは、組織がどんなふうにできて、どんな問題を孕んでゆくか、という本質を知ることにつながるのです。

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