(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
昨年の「鎌倉殿への道」に続き、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では中世軍事考証という立場で関わっている西股総生氏の連載「鎌倉殿の時代」。今回は頼朝を取り巻く人々を紹介する第2弾として、頼朝の挙兵を支えた5人の人物を紹介する(JBpress)。
◉鎌倉殿の時代(1)頼朝を取り巻く人々PART1
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68307)
戦国武将の祖先も登場
◉源行家(みなもとのゆきいえ/杉本哲太)
源義朝のいちばん下の弟で、頼朝の叔父にあたります。熊野の新宮に住んでいたことから新宮十郎と名乗っていました。経歴は不詳ですが、都から離れていたため平治の乱に巻き込まれずに済んだようです。
そののち、都に上って源頼政を介して以仁王と知遇をえたようで、以仁王の令旨を全国に伝え歩くことになりました。このとき行家は、ドラマで描かれていたとおり山伏に身をやつしていましたが、別にコスプレを楽しんでいたわけではありません。
この時代は庶民が旅行をすることなどないので、よそ者がウロウロしていれば、とても目立って警戒されます。ただし、山伏は各地を修行して回るので、よその土地へ行っても怪しまれずに済むのです。行家は熊野での暮らしが長かったので、山伏に身をやつすのもお手の物だったのでしょう。
こののち行家も平家との戦いに身を投じてゆくのですが・・・、どうも合戦はあまり得意ではなかったようです。手持ちの兵力もなく、武運には恵まれない人でした。
◉三善康信(みよしやすのぶ/小林隆)
13人メンバーの一人。三善家は都の中級貴族で、明法博士(みょうぼうはかせ)という法曹官僚を務めた家です。康信も朝廷で書記官の仕事をしていましたが、母が頼朝の乳母の一人の妹だった縁で、頼朝とつながりがありました。
平治の乱で伊豆に流された頼朝を気遣って、定期的に使いを出して都の様子を頼朝に伝えていた人です。のちに頼朝が鎌倉を本拠に定めると、鎌倉に下ってきて書記官として頼朝を支えるようになります。康信は生真面目な役人でしたが、源氏の縁者ということもあって、平家全盛の都では肩身が狭かったのでしょう。
頼朝の挙兵が、関東の武士たちを集めただけのものだったら、おそらく一過性の反乱で終わったでしょう。幕府と呼ばれるような政権を築くことができのは、書類仕事がきちんとできる三善康信のような事務屋さんが、頼朝を支えたからです。その意味で康信は、間違いなく鎌倉幕府創設の功労者の一人といえるのです。
◉土肥実平(といさねひら/阿南健治)
土肥の次郎、または土肥の庄司と名乗っていました。いまの小田原市の南部から、湯河原のあたりを勢力圏としており、挙兵直後から頼朝に従っていました。石橋山の合戦で惨敗した頼朝が、大庭方の探索をかいくぐって脱出に成功したのは、戦場一帯が実平の地元だったからです。こうした事情から、実平は頼朝に信頼されて幹部の一人となります。のちに一ノ谷や屋島の合戦では義経の副将格をつとめ、山陽地方の占領地行政や治安維持にも当たっています。
実はこの人、戦国大名小早川氏の祖先です。実平の長男である遠平は、早川のあたりを所領として小早川遠平と呼ばれていました。そして、実平や遠平が平家との戦いで活躍して、山陽地方に所領をもらったのが、小早川氏の始まりとなるのです。