(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
武家政権を「幕府」と呼ぶのはなぜか
この連載では、1180年(治承4)の4月に以仁王が平家打倒の令旨を発してから、源頼朝が伊豆で挙兵し、12月に「鎌倉殿」となるまでの8か月間のできごとを、ドキュメント風に追ってきた。
では、来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のタイトルともなっている「鎌倉殿」とは何か? 『鎌倉殿の13人』が始まる前に、もう一度整理しておこう。
鎌倉幕府、室町幕府(足利幕府)、江戸幕府(徳川幕府)・・・われわれは、日本の中世から近世を支配した武家政権のことを、「幕府」と呼んでいる。でも、「幕府」の語がひろく使われるようになったのは、実は近代に入ってからのこと。少し皮肉な言い方をするなら、幕府は、存在しなくなってから「幕府」と呼ばれるようになったのである。
では、なぜ武家政権のことを「幕府」と呼ぶのだろうか?
もともと「幕府」とは、軍を指揮する将軍のテント(幕舎)を指す言葉だ。将軍が宿営するテントは、軍の司令部である。ゆえに、作戦地域や占領地における軍政の発令所にもなる。敗戦後の日本を連合軍総司令部(GHQ)が統治していたのも、同じ原理だ。
日本の中世〜近世の場合、武家政権のボスは朝廷から征夷大将軍に任じられていた。征夷大将軍とは、朝廷に服属しない蛮族(=夷)を征討する最高司令官、という意味だ。
国の武士を従えて軍事指揮権を握った者が、朝廷から征夷大将軍に任じられ、その権力を後世のわれわれが「幕府」と呼んでいるのである。だから、「徳川家康は1603年に征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた」という表現は、本当はおかしい。征夷大将軍に任じられたからといって、「幕府」という名の組織を開く資格を得るわけではないからである。
では、われわれが「幕府」と呼んでいる権力を、当時の人たちはどう呼んでいたかというと、江戸幕府のことは「徳川家」と呼ぶのが普通だった。つまり、徳川家が全国の武士を従えて権力を握っている状態が「徳川幕府」なのである。
鎌倉幕府の場合はどうだろう。鎌倉時代、幕府と朝廷の間で、さまざまな政治的やり取りがかわされたが、その様子を当時の記録で見ていると、
「関東の考え方は、こうである」
「鎌倉が、こんなことを言ってきた」
みたいな書き方をしている。われわれが「鎌倉幕府」と呼んでいる権力を、鎌倉時代の人たちは「鎌倉」とか「関東」と呼んでいたのである。
その「鎌倉」と呼ばれた武家政権のボスが、「鎌倉殿」である。「鎌倉殿」とは、ミスター鎌倉である。ただ、筆者が「僕がミスターJBpressだ」と名乗っても、大方の失笑を買うように、「ミスター何々」の称号は、皆から認められてはじめて成り立つものだ。
頼朝も、鎌倉に結集した武士たちから「自分たちのボス」として推戴されることによって、「鎌倉殿」となった。その頼朝が、朝廷から征夷大将軍に任じられたから、われわれは「鎌倉幕府将軍」と呼ぶのである。したがって、「鎌倉殿⊃鎌倉幕府将軍」ではあっても、「鎌倉殿=鎌倉幕府将軍」にはならないのである。