(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
◉鎌倉殿への道(5)8月4日、頼朝、山木兼隆襲撃を企てる
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66325)
◉鎌倉殿への道(6)8月17日、頼朝、どうにか兵を挙げる!?
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66398)
◉鎌倉殿への道(7)8月23日、叛乱軍壊滅、頼朝の消息は不明
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66535)
三浦半島の雄・三浦一族
治承4年(1180)の8月26日、三浦の一族は皆、まなじりを決して衣笠山(きぬがさやま)に集結していた。前日から防戦の仕度で慌ただしいが、今日は間違いなく敵が押し寄せてくる。
3日前、彼らは頼朝と合流を果たすべく西へと向かっていた。しかし、大庭景親率いる討伐軍は思いのほか出足が早く、かつ大軍であった。惣領の三浦義澄(よしずみ)は、雨で水かさの増した酒匂川を前に退却を決意した。
息子の義村や、一族の若手である和田義盛らは、討伐軍を頼朝軍と挟み撃ちにできれば勝ち目はある、と息巻いたが、増水した川を渡るのに時間がかかること、相手が圧倒的な大軍であることを考えるなら勝ち目は薄い、と義澄は踏んだのだ。叛乱軍である頼朝に味方して動いた以上、タダでは済まない。しかし、今は何とかして一族の生き残る道を探らねばならないのが、惣領である義澄の立場である。
急いで三浦に逃げ帰る途中、鎌倉の由比ヶ浜のあたりで、討伐軍に追いつかれた。武蔵武士の若手でも、剛勇をもって知られる畠山重忠である。この時は、小坪坂のあたりで地の利を生かしてうまく防戦し、畠山の郎党を次々と射倒してやったので、どうにか退却できた。義澄の妹婿である金田頼次が、上総から援軍として駆けつけてくれていたのも、心強かった。
とはいえ、これで済むはずがない。敵は必ず、三浦の地に押し寄せてくる。そこで、一族の者は皆、ふだん住まっている屋敷を引き払って衣笠山に集まることとなった。衣笠山はさほど高い山ではないが、山襞が入りくんでいて騎馬武者では攻めにくい地形をしている。それに、先祖代々の由緒の地でもあるから、非常危急のときには一族挙げて籠もることになっているのだ。
正面にあたる東の谷筋には、義澄や弟の佐原義連(よしつら)らが陣取り、裏手になる西の木戸口は、和田義盛や金田頼次らが持ち場とした。おのおの、木を切り倒して道を塞ぎ、防戦の足場となる高台には楯を並べて守りを固める。全軍の中心には、義澄の老父である義明(よしあき)が腰を据えた。
はたして敵は、26日の朝から攻め寄せてきた。畠山重忠をはじめとして、江戸重長、河越重頼や村山党など、武蔵の名だたる武士たちだ。武蔵勢は、石橋山では思うような働きができていない。土地鑑のある相模勢が、うまく動いて先に地の利を占めたからで、その分、ここで存分に手柄を立ててやろうと意気込んでいる。三浦の者たちも畠山・江戸・河越の面々も、お互い顔見知りではあったが、戦となって敵味方に分かれたからには首を取り合うのが、武士と生まれた者の定めだ。
こうして両者の間で終日激戦が展開し、日没によって戦闘は自然と止んだ。三浦勢は辛うじて敵の攻撃をしのぎきったものの、死傷者は多く、矢も底を尽きかけていた。明日、戦闘が再開されたら、いくらも持ちこたえられないだろう。主だった者たちが集まって、夜陰に紛れて脱出するしかない、という相談になる。
この時、長老の義明が口を開いた。
「三浦はもともと源家累代の家人だったから、いま源家再興の時に巡り逢うことができて、うれしい。どうせ長くはない命なのだから、頼朝殿に捧げることで一族のためになろう。自分が一人残って敵を引きつけるから、皆は逃げのびて必ず再挙を期してくれ」と。
この言葉通り、義明は壮烈な討ち死にを遂げ、三浦一族は船着き場を指して落ちのびていった。一方の畠山重忠は、「あの有名な三浦の衣笠城を落としたぞ!」と喜んだという。
※次回は8月28日に掲載予定。