(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
日本全国を巻き込んだ〝源平合戦〟から、鎌倉幕府の成立に至る動乱を、事件の起きた日ごとに追ってゆく連載「鎌倉殿への道」。日本の歴史を大きく変えた、運命の治承4年(1180)を、840年前のリアルタイムとして追体験していく画期的な試みは、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習にもなるだろう。今回は4月27日、以仁王の令旨が源頼朝に伝えられた経緯である・・・。(JBpress)
◉鎌倉殿への道(1)4月9日、すべては一通の檄文からはじまった
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64542)
令旨を受け取った頼朝の反応は?
水を張った田が初夏の陽光に照り輝いて、五月女たちが田植えにいそしんでいる。伊豆の国府である三島から南にかけての一帯は、山がちなこの国では貴重な穀倉地帯なのだ。そんな中、山伏姿の男が一人、南へと道を急いでいる。ときおり立ち止まって用心深げにあたりをうかがっていた男は、やがて小さな山の麓にある、質素な屋敷へと入っていった。
「八条院蔵人に任ずる新宮十郎」
そう名乗って用件を告げた男は、屋敷でいちばんよい部屋の上座へと通された。そして、まかり出た屋敷の主人とひとしきりの挨拶を交わしたのち、うやうやしく一枚の文書を取り出し、かん高い声で読み上げはじめた。
「東海・東山・北陸道諸国の源氏および武士たちに告ぐ。ただちに逆賊である清盛以下の平家一族を討て。」
平伏して聞いている屋敷の主は、源頼朝。かつて、平治の乱で敗れて無念の最期をとげた義朝の遺児である。乱のとき弱冠14才だった頼朝は、敗走中に捕らえられたものの一命を助けられ、伊豆に流された。以来21年。この地で亡き義朝や兄たちの菩提を弔いながら、つつましく暮らしてきた。いまは、政子という女性と結ばれて、一女を得ている。
政子は、この地にささやかな勢力を営む北条時政の娘だが、二人が結ばれるまでには少々の紆余曲折があった。頼朝が、監視役だった伊東祐親(すけちか)という有力武士の娘に手を出して、男の子まで産ませてしまったのだ。ことを知った祐親は烈火のごとく怒り、おさな児を始末して、娘を他家に嫁がせてしまった。頼朝が北条家の婿におさまった今でも、祐親はこの件を根にもっている。
話を戻そう。以仁王の令旨を読み上げている山伏姿の男は、源行家という。義朝の末弟で、頼朝から見れば叔父にあたる。平治の乱を何とか生き延びた行家は、いまは以仁王と頼政から託された令旨を忍ばせて、諸国の源氏たちに伝え歩いている。
「ともに立ち上がり、憎き平家一門を討ち果たそうぞ!」
そう噴きあがってみせた行家が去ったあと、頼朝は同席した者たちと顔を見合わせた。時政と政子、彼女の兄の宗時と、弟の義時、安達盛長といった面々である。
この盛長は、いまや頼朝に付き従う唯一の家人である。もともと頼朝には、頼もしい武者たちが何人も付き従っていた。しかし、流人の身で多くの家人を養う余裕はない。佐々木兄弟(定綱・経高・盛綱・高綱)など、いまでは相模の有力武士である渋谷氏に、契約社員のような立場で仕えている。一人残った盛長は、気のよく回る働き者ではあったが、武勇の士ではない。
挙兵も何も、頼朝には動かせる兵がないのだ。北条だって小さな家だ。一族郎党をかき集め、日ごろ屋敷に出入りしている近在の武士たちを引き入れたって、とても兵力と呼べるほどの数になりはしない。気の強い政子や宗時は、何とか頼朝に一旗揚げさせたいと思ったが、かといって何か名案があるでもない。
頼朝は、途方に暮れた。
こんな話が伊東祐親の耳にでも入ったら、えらいことになるぞ。だいたい、自分をさんざん焚きつけていった十郎叔父上だって、一人じゃないか。いったい、どうすればよいと言うのだ・・・。
(どうする頼朝、次回・第3回は5月26日掲載予定)