松子と出会った谷崎は、女性の美や、日本の伝統的な美を追求していきます。そして、表の世界の美しさと裏の世界の美しさという新しい「美」の世界にたどり着きます。
文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)

『陰翳礼讃』と『細雪』
太平洋戦争中、谷崎は、出版禁止令などを受けています。題材や文章があまりに妖艶だったからです。ですが、そのような制限を受けても、谷崎は素知らぬ顔で松子夫人とその妹の四姉妹との生活を題材にした『細雪』に取り組みます。
軍部による発行差し止めに遭っても書きたかった小説『細雪』の4人姉妹のうち、主人公の二女「幸子」は松子夫人がモデルです。
谷崎は、『細雪』など関西を舞台にした小説では、登場人物のセリフを綺麗な船場の言葉に松子に直してもらいました。船場の美しい日本語は、京都・伏見の公家が使っていた言葉で、皇族に着物を納める時などに使われていたものだったのです。
松子は、生まれた時から船場言葉で育った裕福な女性です。谷崎の書いた文章を、船場言葉に直してくれるのです。
1977年に刊行された、丸谷才一の『文章読本』(中央公論社刊)には、谷崎潤一郎が書いた『文章読本』(1934年中央公論社刊)も取り上げています。
谷崎の『文章読本』には「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない。だから文法に囚(とら)はれるな」と書かれています。
丸谷によるとここでいう「文法」は「英文法」を指し、谷崎は「英文法」にこだわって日本文を書き続けてきたが、英文直訳のような主語を置かず、無視した日本語を書けと言っているのです。谷崎の天才的な妖艶な文章は、松子夫人の影響や直しによって、さらに磨きが掛かります。
さて、市川崑監督の映画『細雪』で四姉妹を演じた俳優さんたちに船場の言葉を指導したのも松子夫人でした。映画の最後のスタッフロールには「台詞校訂 谷崎松子」と記されています。
小説や映画『細雪』にはおもしろい船場でのお食事の仕方の練習場面も出てきます。たとえば、ご飯の食べ方では「お」と言いながら、口の真ん中にお箸の食べ物を持っていくと唇を汚さないで食べられる。それを練習するのに高野豆腐の出汁でビチョビチョになっているものを使う、など。松子の美しい所作も谷崎は小説に取り入れていったのです。
関西で松子と出会ったことで、谷崎は小説の中でも、それまで以上に女性の「美」を表現していくようになります。また、谷崎が着目したのは、日本の華美華麗な文化を支える「影」の部分の美しさです。そのことをまとめたのが世界的にも有名な『陰翳礼讃』というエッセイです。
もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。なぜなら、そこにはこれと云う特別なしつらえがあるのではない。要するにたゞ清楚な木材と清楚な壁とを以て一つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が凹みの此処彼処へ朦朧(もうろう)たる隈(くま)を生むようにする。にも拘らず、われらは落懸(おとしがけ)のうしろや、花活の周囲や、違い棚の下などを填(う)めている闇を眺めて、それが何でもない蔭であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。
『谷崎潤一郎全集 第二十巻』所収『陰翳礼讃』より(中央公論社)
東京や横浜の文化は明治維新以降、新しいもの、商業的なものに変化しましたが、京都をはじめ関西には日本の美しい文化が残っていました。江戸っ子の谷崎は、その対比の中で、古くから残る日本の美とそれを支える文化を感じたに違いありません。
谷崎は大正12年から昭和24年まで芦屋で暮らしていて、戦争中もほとんど生活に困りませんでした。現在、芦屋市谷崎潤一郎記念館は松子夫人や親族、関係者からの谷崎に関する寄贈品を収蔵・展示しています。また記念館は、谷崎が戦後に移り住んだ京都の「潺湲亭(せんかんてい)」を模した数寄屋風の外観で、池のある庭も潺湲亭の日本庭園を再現しています。
記念館へ行くと、谷崎の仕事部屋には広く美しい庭を見ながら仕事ができる机が置かれています。谷崎はどんなことがあっても毎日必ず机に向かい、原稿用紙3枚から4枚、1日6時間かけて書いていました。あとは遊んで暮らしているという贅沢な光の部分を持っている作家でしたが、同時に落ちていくもの、崩れていくものに対して、愛着と哀愁を持っていました。そんな谷崎だからこそ、数々の名作を生み出せたのだと思います。