7回もノーベル賞候補に

法然院にある墓所  写真=フォトライブラリー

 太平洋戦争中の昭和17年(1942)、谷崎は長編小説『細雪』を書き始めます。翌年から雑誌『中央公論』で連載が始まりますが、検閲当局から「印刷禁止」に指定されてしまいます。

 しかしそんなことは、谷崎にとって、どうでもいいことでした。谷崎は、執筆を続け、『上巻』を自費出版で出し、知人に配付します。『中巻』も政府による印刷禁止となり、戦後もGHQによる検閲を受け、改変を余儀なくされました。

 そしてようやく昭和23年(1948)、62歳で『細雪』全編を書き上げると、翌年、朝日文化賞を受賞、同年、文化勲章を授与されるのです。『細雪』は昭和25年に英訳版がアメリカで出版、その後も世界各国の言葉で出版されました。

 昭和33年(1958)には西脇順三郎とともに日本人として初めてノーベル文学賞にノミネートされます。谷崎は、昭和35年から40年までの毎年、計7回もノーベル文学賞候補になっているのです。

 また、昭和39年には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出されています。この全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に文学者として選出されたのは、現在でも谷崎潤一郎だけです。

 昭和40年(1965)7月24日、79歳の誕生日に好物の鱧を食べた谷崎は、翌朝体調が悪化、7月30日に帰らぬ人となりました。

『文章読本』で、文章の味は、藝の味、食物の味と同じで、それを鑑賞するのには学問や理論は助けにならず、感覚の鋭いことが必要だと書いた谷崎。

 谷崎は、感覚を磨き続け、美にたどり着いた文豪に違いありません。その源泉となる力は、どこにあったのか。それは、貪欲さ、そして美しいものと同化しようとする「愛」だったのだと思います。