撮影:平石順一

グアテマラの最高級品「エルインヘルト農園」の豆は手焼き焙煎で上品な甘味と香りを引き出す

一杯に宿る珈琲への情熱

「お湯を入れるんじゃなくて、心を入れるんだよ」。そう真剣なまなざしで語ってくれたのは、季節によって表情を変える緑豊かな石神井公園のほど近くにある「茶房 珈路(こみち)」のマスター、古賀今朝光(けさみつ)さんだ。味見をして少しでも納得がいかなければ、ためらいなく淹れ直す。「お代をいただいているのだから、それは当然のこと」と言い切る姿を、隣で見ていた奥さまが「突き詰める性格なんですよ(笑)」と微笑む。

大きなカウンターと、テーブル席のゆったりとした空間
バルコニーには天日干しされた生豆が並ぶ

 今朝光さんが珈琲と深くつながるようになったのは二十歳の頃。10代の頃は食品会社や製薬会社で働き、東京・新宿では営業職に追われて体調を崩してしまい、出身地の佐賀へ戻ることに。そんな折に今はもう存在しない名店「赤玉」のマネージャーと出会ったことが、現在の人生につながる大きな転機となった。日に800~1000人もの客が訪れる多忙な店でありながら、珈琲をまとめて落とすことはせず、一杯ずつ丁寧に淹れていた「赤玉」。朝から晩まで働きながら身につけたその感覚こそ、今朝光さんの原点なのだろう。

黒のベストがきまっている今朝光さん。丁寧かつスピーディなー作業は見惚れるほど
迷ったらこれ、ブレンドの中で一番人気「マスターコーヒー」

 その後、大学進学のため再び東京へ。珈琲に関する知識も技術も、すべて独学で学びながら、その奥深さにはまっていったという。それでも当初は「珈琲屋をやるつもりはなかった」というのだから、人生はどこへ向かうかわからず面白い。創業当初は10種類ほどしかなかった豆も、いまでは40種類以上が並び、季節ごとに希少な豆が入ることもある。「良い豆はバチバチと軽やかに鳴くんだよ」。農園から届く豆の“思い”をそのまま味に生かせるよう、香りや音に耳を澄ませながら焙煎する日々。そして、雑味のない澄んだ味わいを求め、焙煎後には薄皮まで丁寧に取り除く細やかさをみせる。

フルーツの香りと甘酸っぱさが特徴のエチオピア産「モカ・ゲイシャ」
氷の上に直接珈琲を落とす「キングスアイスコーヒー」はその名の通り最高級の味わい

 注文を受けてから豆を挽き、その人に似合うカップを選ぶのも、おもてなしのひとつ。合わせて500脚以上あるというカップは、すべてご夫婦が現地に足を運び、自分たちの目で選んできたものばかり。

佐賀の名産、有田焼、伊万里焼、唐津焼から選ばれたカップ

  少し何か食べたいときにぴったりの羊羹は、故郷・小城の名産で、手作業で作られた甘さ控えめの一品。レアチーズケーキやフレンチトーストも人気で、フレンチトーストには専用のフライパンまで用意しているというこだわりぶりだ。

練りが控えめのため、しっとり柔らかい口当たりが特徴の小城羊羹
さっぱりとした味わいの「レアチーズケーキ」には、苦味と甘味のバランスがいいインドネシアの「カトゥールコピア」がおすすめ
専用のフライパンでじっくり火を通す「フレンチトースト」。パンの表面の香ばしさとふわふわの粉糖が調和した逸品

「喫茶店という仕事は、終わりのない挑戦です」と今朝光さん。それでも、焙煎の音に耳を澄ませ、一杯の珈琲にそっと気持ちを注ぎ込む時間が、何よりも好きなのだそう。本当は50歳でやめるつもりだったという言葉に一瞬驚くが、1976年に始まったこの店の歴史は今年で50年。いつしか多くの人の心の拠りどころとなり、常連客からは「長く続けてほしい」と声をかけられるようになったという。そのことを嬉しそうに話す今朝光さんの目の奥には、まだまだ消えることのない、珈琲への情熱の炎が宿っているように感じられた。